「あ、」


学校に持っていく鞄に明日の勉強道具を詰めようとして気がついた。
手にした一つの教科書には、綺麗な字で椎葉杏子と書かれていた。 どうやら自分のに混じってそのまま持って帰ってしまったらしい。 というのも、夕方まで一番星で勉強会をしていたからだった。
普段ならあまり気にとめないが、さすがに卒業学年の試験で赤点を取り続ければ卒業が危ぶまれるという噂がまことしやかに流れ(大方真実なのだろうけれど)、 俺は偶然会った飛鳥さんにも聞いてみた。答えはイエス、赤点と休みが多ければその分補習しない限り留年決定とのお墨付き。
そんなことになれば確実に親父に殴られると確信し、すぐに一番星に駆け込んだというわけである。
そっと、教科書に書かれた字をなぞった。
もうしょうがないなあ、と呆れつつも解らない所を教えてくれた彼女の姿が思い浮かんで、部屋の中で一人、思わず笑ってしまう。
こんなことだけで元気になる自分がいて、なぜだと首を傾げるのはもう何回目か数えきれなかった。


時刻はもう夜の十時で、あたりはすっかり闇に呑まれ、商店街の小さな灯りがぼんやり点々と光るのみだ。
迷惑かもしれないとは思ったけれど、明日彼女が必要なものだったら困る。
ガラリと椎葉米店のドアを開け、ごめん下さーい、と呼んだ。

「はーい。あれ、キュー?」
「あ、イバちゃんこれ、・・・・」

杏子の声に顔を上げて――止まった。

固まってしまった俺に、杏子はどうしたの?と不思議そうな顔をするけれど、口をあんぐりと開けたまま何も言えず。 彼女をまじまじと見つめたまま一ミリも動けなかった。
彼女の、いつもはお団子に纏められている黒髪が、さらりと肩の上で揺れていたからだった。
驚いた。なぜなら、彼女の身に纏う空気はいつもの明るく逞しい母親気質のものではなく、静かに微笑めば知らず色香を放つような、そういう種類の女のものだった。 しん、とした、清廉で澄んだ空気が艶を含み、長い黒髪が彼女をより大人に見せていた。
髪型ひとつでこんなに変わってしまうのかと・・・なぜだろう。思いがけず動揺する。
どくん、と心臓が音を立てた。
杏子が首を傾げながら俺に近づいてきた。

「キュー?なんか用があるんじゃないの?」
「え、あ、・・・うん」

ようやく我に返って教科書を渡せば、彼女はふんわりと優しく、ありがとうと言って笑った。
それはまるで、愛しい人に向けるような「女」の表情(かお)。 花のように揺れた瞬間が、やけに鮮明にスローモーションで目に、胸に焼きつく。
流れる黒髪も、彼女の笑顔も、柔らかく、可憐に。


―――どうしよう、ヤられた。


(可愛すぎる)

身体中が、かあっと熱くなる。心臓がやたらとドクドクいって、俺は自分の顔が炎に焼かれてるんじゃないかと一瞬真剣に考えた。
・・・イバちゃんてこんな可愛かったっけ?
なぜなんだろう、いつものお団子頭じゃないだけ、ただそれだけなのに。 どうしようもなく魅力的に感じている自分がいて、戸惑う。
そして、自分ではない自分になりそうな―――。
うるさい鼓動を強く感じながら、ゆっくりと手を伸ばして。彼女の艶やかな髪に、そっと触れる。イバちゃんの身体が、小さく跳ねた。

「、なに・・・?」
「・・・髪、下ろしてんの、久々に見た」
「そう、だね。面倒だからひとつにしてたし・・・」

『ゆっくり結ぶ時間もないし』
彼女の言葉に隠れた理由を、俺はいとも簡単に見つけ出す。それだけ彼女と過ごしてきた時間は長い。
小さな頃は三つ編みをしていた。それがいつの間にかお団子になったきっかけなんて口に出さなくとも解る。 手間をかけることないようにと、一つにしてしまうそれにも、彼女の大人びた証があった。
そう思えばなお、今触れている髪が愛しく思えた。

「・・・いつも下ろしてたらいいじゃん」
「え?なんで、」
「綺麗だから」
「―――っ!?」

ざっと、音が聞こえるほど杏子が後ずさって驚く。その勢いで手から髪が零れそうになって、俺も慌てて同じ分だけ距離を詰める、つまりプラマイゼロ。
だけど彼女は、そんなことにも気づかないほど動転していて。
な、何言ってんのキュー?らしくないよ。
慌ててパッと手で髪を抑えてそう言う杏子の顔は、きっと誰が見ても判るほど真っ赤だった。 困ったように眉が下がっているのに、どことなく嬉しそうに口が緩んでいる。羞恥に伏せて、けれど時折こちらをちらりと見る瞳は、潤んでいた。


―――ごくり。


喉が鳴った。
ちょ、ちょっと・・・、可愛すぎないか、その反応!

再び心臓が暴れだしたその時、杏子が動いたなごりか、ふと香った。
お風呂上がり特有の、思わず首元に唇を寄せたくなるほど甘い良い匂い。 それが杏子から匂った香りだと気づいて―――急にバチッとそこで目が覚めた。
ある種の危険信号がすぐさま頭の中で点滅した。


「―――悪い前言撤回、お団子のままでいてよ」
「はあ?何言って」
「いいからいつものイバちゃんでいてよ!な!」
「ええ?分かったけど・・・ほんとにどうしたの・・・?」


困惑する杏子をよそに俺はくらりとくる頭を抱えて悶絶する。
ああ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ、駄目に決まってる!
長く下ろされたその髪が彼女の香りを風に乗せる、それは俺をたやすく「男」にしてしまう。 とっさにブレーキをかけなければ俺の唇は彼女を襲っていたような気がして、思わず口元を片方の手で覆って真っ赤になった。
俺ですらこうなるんだ、こんなの他の男に見せられる訳ない。理性が持たない―――って待てよ、さっきから俺は何を思ってるんだ!?
ざわざわと身体中の体温が沸騰し、血液は急速に駆け巡ってゆく。
なぜだろう。なぜ彼女がいつもと違う、ただそれだけでこんなにも心が揺さぶられているのか。どうして彼女の髪の毛一房ですら愛しく感じているのだろうか。
揺れる黒髪が、頬を赤く染める彼女が、俺を惑わせて愛しさに胸を詰まらせる。 目の前の初めて見るような「女」に、クラクラ目眩を感じてる。 髪に触れるこの手が離れたら、きっと。俺はどこまでいってしまうか判らない。
いつまでも彼女の虜になったまま、離れられないような気がした。


ああ、なんて罪深き「女」(ひと)。
この手が触れる黒髪に今すぐ、くちづけたいとまで思わせている。







愛 の 衝 動

(いっそすべて奪いたくなる)









09.4.26.aoi
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智さまのリクで「髪を下ろしたイバちゃんにドキドキするキュー」でした。
本当は髪にキスさせてやろうかと思ったんですが。収拾がつかなくなりそうだったので、また別の機会にしようと思います・・・。
イバちゃんが好きだから髪型一つで一喜一憂できることに気がつかない鈍感キューでいかせていただきました。
そうでなくちゃ理性なんて言葉出ませんてアンタ。そう突っ込みつつ、ニマニマしながら読んでくださると幸いです。

さて、キューはこのあと一体どうしたでしょうか。皆さまの予想はどうですか?
私は「お茶でもどう?」と何も知らずに現れた椎葉父で我に返り、慌てて帰ると思います(笑)

では智さま、大変お待たせいたしました。リクエストありがとうございました!