触れられない、そばにいられない。
みえない棘が、いつも彼女の心を守って誰よりも近しい男すら拒んだ。 難なく入り込んでとろかすことができるのは、生涯ただひとりの男だけだった。



ついにこの日がきたか、と空を見上げながら、遥は感慨にも似た気持ちで思う。 告げられた時から、思うのは今日というこの日のことだけだった。
窓から離れ、カツ、カツ、とゆっくりと歩き出す。 その動きはのっそりとしていてまるで亀のようで、なんて身体は正直なのだと苦笑いする。愛想笑いの準備はいつでもできているというのに。
やがて辿り着いたひとつのドアの前で立ち止まる。あたりは今日にふさわしくないほど静かで、思わずやっぱりこれは夢なのだと錯覚してしまいそうになった。 遥は自嘲するように小さく笑う。まったく、自分らしくない。
ノックをして、静かに扉を開けたその先には、驚いた顔をしている飛鳥が立っていた。
まぶしかった。その白いドレスも、輝かんばかりに美しいその女も。
思わず遥は目を細めた。


「遥?・・・来ると思わなかったわ」
「呼んだのはそっちだろ?ひどいねえ飛鳥チャンは」
「だって、会うのどれくらいひさしぶりだと思ってるの?」
「・・・・さあ、ね」


ちょっと真面目に答えなさいよ、と眉をしかめる彼女の、ルージュがひかれた唇をそっと見ていた。
いつのまにこんなに綺麗になったのか、などというありきたりな文句を言うつもりは毛頭ない。 ぱったりと会わなくなってから、ゆうに二年近くは経っていたけれど、それよりもずっとずっと昔から彼女を見ていたのだから。
生まれた時からともに過ごしてきたけれど、あれはいつからだったか。 心を包み込むようにわしづかみにするその感情に気づいて、日に日に美しく育ってゆく幼なじみを静かに見守りはじめたのは。 それと同時に、飛鳥の心が別のものになっていくのと比例していることも、知っていた。


「ずいぶんきれいに仕上げてもらったネー」
「あんたね・・。普通、花嫁に対してそういうこと言う?」
「まーまー。・・・嘘だって。すっげえ、綺麗」
「どうだか・・・」
「拗ねんなよ、褒めてるんだから」
「呆れてるんだけど」
「なんで?俺が相変わらずだから?」
「わかってんじゃない。聞く必要ないでしょ」


そう。まるで双子かのようにお互い心が読めてしまうし、そうして暗黙のうちにお互いの望みを叶えるのが常だった。
だからだ。気づくことはできてもどうにもできなかったのは、飛鳥の望まないものが解ってしまうから。 飛鳥を慕い追いかけていた、あの蕎麦屋の長男と同じことをするわけにはいかなかった。いつも、そのたったひとつの飛鳥の望みを前にすれば、逃げるか茶化すしかできない。 そうして離れて傍にいってを気ままに繰り返し、けれど心から想うのはいつも飛鳥、ただひとりだけ。
それは、青い時代から今も、ずっと変わらない。けれど。

窓からの光が飛鳥に降りそそいでいる。まるですべての神が飛鳥を祝福しているかのように思えて、少し苛立つ。 このまっさらな、純真そのものの白に彩られた今を、どこか乱して穢してやりたくてたまらない。
手は自然と飛鳥の髪にかけられていた。さら、と細い髪はたやすく遥の指に巻きついて心地良くくすぐる。本当はいつだってこんな風に触れていたかった、と遥は思った。
飛鳥は怪訝そうに遥を見るけれど、黙ったままの遥をただ待っている。
頭がすこしだけぼうっとする。いつまでも指が飛鳥のぬくもりを求めて離れられない。だからだと思ってほしい、こんな戯れごとを口にするのは。


「なあ、飛鳥」
「なによ?」
「―――どうして、おれを見なかった?」





一度だけ、キスをした。まだ十代だったころ。
誰もいない家の中、突然、そっと飛鳥に強くやさしく。抵抗しようとする飛鳥を抑えつけて何度もなんども繰り返しした。
気まぐれ、としかいいようがない。突然溢れ出た本音だった。誰にも気づかれないようにと押し隠した、扉の向こう。
当然、飛鳥は怒って遥をひっぱたいたし、しばらく口もきいてもらえなかった。 それでもまたぽつりぽつり、と話すようになって元通りになって。でも遥は結局なにも言えなかったし聞けなかった。
そのまっすぐな瞳が向く先は、何もなかったように元に戻ったから。永遠に変えられないと知ってしまったから。
それからだ。飛鳥と会わないようになったのは。





「・・・・先生がすきだったから」
「だからキスしても変わらなかった?」
「・・・そう、よ」


違うだろう。本当はあの時すこし揺れたのだ。それは強引に触れ合って今までにないくらい近くで見て解った。
それでも頑なになびかない彼女の強さ、強情さに苦笑をしつつも尊敬の念すら覚えた。


「おれはおまえのような強気な女はすきだけどな。・・・素直に言えよ。最後なんだからな」
「!」


最後ってなに。飛鳥が澄んだ瞳を大きく見開いて問いかけた。 それには答えず、ただ「ん?」といつもの飄々とした笑みを返すと、飛鳥は諦めたように小さく息を吐く。 はあ、とこぼれた息の音が、しんとした部屋の中で響いた。
やがて、飛鳥はゆっくりとかみしめるように言葉を紡ぎだした。


「驚いたし、腹も立った。・・・けど、本当は嬉しかったよ。このまま流されていけたらどんなに楽かとも思った」
「・・・・・」
「苦しかったの、あの頃はまだ先生に見てもらえなくて。だけど」
「・・・だけど?」



「ここで遥についていっても、遥を傷つけるだけだと思ったのよ」



「・・・・・」

かなしかった。そう言って遥を見る飛鳥の微笑みも、自分がしたことも。
愚か、その一言だ。
飛鳥の望みは自分の望み。そうやって生きてきたのに、タブーを犯した。飛鳥を裏切った、そういうことだった。それでも飛鳥は大きな優しさを返してくれたのに。 遥はいつまでも逃げることしかしていない。


「・・・ごめんな」
「ううん。こっちこそ、ごめん」
「おまえが謝ることはねえよ」


遥がそう言って笑うと、彼女も笑った。今度はいつもの、花が咲いたような綺麗な笑顔だった。
この先はあの男が独り占めか。
そう思えばやりきれないし、今すぐにでも飛鳥をさらってしまおうかと思うけれど、でもそれはしない、できない。 飛鳥がしあわせになる方法は、このドレスを着てあの男の横に立つことだと、十分解りすぎているくらいに解っている。。


「・・・・ねえ遥、」

「ん?」

「遥は、軽いし軟派だし遊び人だしどうしようもないと思うけど」

「おーい」

「でも、。そんなの、いつもカムフラージュに過ぎなかったんでしょ」

「・・・・!」

「実はまじめで、人のことや自分のこともしっかり考えているし。人の、・・あたしの気持ちばっかり優先しちゃうやさしいところもあるし」

「・・・・」

「なにより、遥、は。・・・・なにも言わなくても、あたしのこと、一番解ってくれた」

「―――――」

「・・・ずっとずっと好きよ、遥。あたしの、最高の幼なじみなんだから。―――だから、。最後なんて、いわないでよ。・・・わかった?」


―――本当に。途方もなくこいつは強いと思う。普通こんなこと言わない。言えない。・・・・まったく、最後の最後までこの女には勝てない。
きらりと濡れてひかる飛鳥の瞳に、心の奥が洗われる。ずっと感じていた重々しさはもうなくなっていた。 心の底から言えそうだった。大切な、今日という日にふさわしい言葉を。

飛鳥の目尻にそっと触れ、涙をすくう。怒ったような顔をしていても、どこか泣きべそをかいている子どものようでもあって、遥は思わず笑った。 いとしい。そう感じてこぼれた笑みのあたたかさを、きっとこの先も忘れないだろう。ああ、今度はどこで、飛鳥以外の誰にその笑みを見せる日が来るんだろう。
ごめん、と小さく呟いてゆっくりと目の前の花嫁を引き寄せた。それは、自分の望みを叶えるための謝罪。
素直におさまった飛鳥の身体をやさしく抱きしめ、耳元で、わかった、最後なんて言わねえから。だから泣くな、と言い聞かせる。
それでも、黙って聞く彼女のいつにない従順さが、今、ひとつの大きな終止符が打たれたことをひしひしと感じさせた。
飛鳥も、本当は解っている。こんなの、ただの気休めに過ぎないということを。 もう、完全に別れてしまった。道も、未来も、この関係も。これから先、なにひとつ交わることはないだろう。 今度こそ、別々の道を歩み始める。これが最後ではないようにと祈るなんてできない。
そして、強くつよく抱きしめる。最初で最後の抱擁。本当は。本当は、いつだってこんな風に触れていたかった。抱きしめていたかった。 遥は、きつく閉じた瞼の裏で熱くそう思う。
その時、応えることはないと思っていた飛鳥の手が、そっと遥の背中に回された。ああ、なにかが満たされる――――もうそれだけで。それだけで良かった。 飛鳥を愛したことのすべてが報われると思った。
だけど、もうひとつだけ。最後だから。


「・・・・・・そろそろ時間か」
「・・・そうね」
「じゃあ。・・目、閉じてくんない?」
「は?」
「言っとくけどひっぱたくなよ」
「ちょ、はる」


か、と続けるはずの唇は、ふいに両頬に訪れた感覚に固まった。それとも、驚くほどやさしい瞳に出会ったからなのかもしれない。



「しあわせになれよ、飛鳥」



そうでなかったらいつでもさらってやる。

ふんわりと、あまくやさしい口づけが降りてきた。なぜだか泣きそうになるほどあたたかくて、飛鳥は静かに瞳を閉じる。
涙がひとつ、零れ落ちた。






さようなら、そして、ありがとうのキスだ。
とうとう手には入らなかったけれど、それでも、いまこの瞬間だけは。
お互いの心を抱きしめあえた気がした。









世 界 を 愛 す る 方 法



(彼女のしあわせを祈ること)







08.7.13.aoi

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さやか様からのリクで、「ハルアスで飛鳥の結婚式直前の邂逅、シリアス」でした。なんでしょうね、これシリアスって言っていいんでしょうかね・・・。

以前書いたハルアスでは飛鳥は遥に勝てないと思ってますが、こっちでは逆で同じことを思っていて自分で書いててビックリしました。 すごい符号というかなんというか。でもお互いにそう思うような関係だといいです。

なんか遥が女々しいような気はしますが・・。たぶん本当なら最後まで感情を押し隠すでしょうね。遥はそういう男気のあるひとだと思います。 まあ所詮、捏造ですし想像です。笑ってやってください。
ちなみに飛鳥の遥に対する好きはどっちかっていうと家族愛に近いと思います。人間愛かな? とにかく恋愛というカテゴリーにはまらない、空気のように愛することができる相手、のような気がします。

難しかったけれど楽しかったです。散文で見苦しいですが、よろしければ、さやか様のみお持ち帰りどうぞ。
リクエスト、本当にありがとうございました!