「相楽くん…これ、あげるね」

そう控えめに言って泉水子が深行に渡したチョコレートは、月の形をしていた。




本来なら男としては義理だろうが本命だろうが喜ぶものなのかもしれない。
だが、深行は奇妙な顔をして差し出されたそれを眺めた―― 決してチョコを貰い慣れているとかそういう事実からではないことを、泉水子がひそかに祈るくらいに。

「もしかしなくても…これ、三日月か?」
「え、うん。そうだよ?」

ああ、そこに変な顔をしたのか、と合点がいった泉水子は明るい顔になった。 珍しくあのね、と説明を始める――家庭科室のオーブンやら冷蔵庫やらの争奪戦をくぐり抜けるため、 持っていた三種類の飴用の型を使って、なんとか月、星、ハートを深行と宗田きょうだいにそれぞれひとつを当てはめたチョコを 作ったのだ。
棒キャンディーのようにしてしまえば、ひとり一つで、冷蔵庫内の場所は小さくて済む。 泉水子は、誰にも角が立たずにやり遂げた妙な達成感で、誇らしい気分だった。

「月が相楽くん、星が真夏くん、ハートが真響さんなの。それぞれ『らしい』かな、と思って」

泉水子は楽しそうに笑う。 その姿は他人が見ていても気持ちのいいもので、深行もネガティブにふさぎこまれるよりはずっと良かった。けれど。
深行はリボンが結ばれた棒を片手に持ち、くるりと回しながらそれを眺める。 茶色の三日月も反転しては戻る、その様を見つめる深行の瞳には少しずつ複雑な思いが宿っていることに、 泉水子はやっと気がつくのだった。
何を考えているかは判らないけれど、ふーん…と言うようにそっけなく眺める深行のその顔には見覚えがある。

「あの…なにか気に入らなかった?」
「いや…ただ」
「?」
「……なんで、俺は『月』なんだ?」

泉水子は、その問いにきょとんとするばかりだ。

「なんでって…月じゃない方が良かったの?相楽くんは星やハートの方が好きだった?」
「…別にそういうわけじゃないけど」

ちっともそうは思ってなさそうな顔で深行は言う。
その思わぬ反応に泉水子は吹き出しそうになって、慌ててとどまった。

(拗ねてるのかな…?形にこだわるなんて…なんだか子どもみたい)

深行の意外な一面に、泉水子は小さく微笑んだ。
それに目ざとく気づいた深行は渋面になる。 仕返しとばかりに長い腕をさっと伸ばし、泉水子の顔に息がかかりそうなほどに距離を縮めた。
突然近づいて腕で柔らかく檻を作った、不機嫌さを隠そうともしない深行に泉水子は驚く。 机と深行に挟まれて、少しでも動けば触れそうな深行の身体に、顔に、小さく息を呑んだ。

「…さ、相楽、くん?」
「――…で?理由はないのか?」
「え?あ、の、えっと…」
「…別に理由がないならいいぞ」
「うん…ううん、あの、そ、そうじゃなくてね?」
「なんだ?」

ふたりの距離はまるで恋人同士が愛を語らうようなのに、話の中身は子どもの小さな喧嘩のよう。
それでも泉水子は、赤い顔で困ったように眉を下げた。
顔をそらしても深行の熱い息を感じて、すっかり心が乱される。どうにもならないほどうるさく鳴る心臓に、声はか細く消える。

「あ、あるにはあるけど…」
「……」

その恥ずかしそうな様子に何やら深行まで気恥ずかしくなってきて、パッと離れた。
ムズムズする奇妙な感情を悟られたくない深行は、誤魔化すようにそっぽを向く。
奇妙な沈黙が教室を支配した。まるで告白でもするような初々しさと気まずさが交ざりあった空気に、 泉水子も深行の反対を向いて俯いてしまう。
お互いに身体を背け合うようにして机に軽く座ったり寄りかかったりしている。 背中がほんのすこし触れただけでも、ふたりはぴくりと震えた。
泉水子が両手を固く握りしめあって、果たしてどう言おうか迷っていたその時―――ふっと耳に音楽が入る。
窓の方へ顔を上げ、遠くから夕方五時のメロディーが流れているのだとすぐに思い当たった。 懐かしさを覚えるその音に、理解したとたん、泉水子の身体から力が抜けて心が和らぐ。
ああ、そうだ。頭に蘇るのは、いつしか開いた記憶で、深行が知りたいことのすべてだ。

「…綺麗な音、だね」
「え?……ああ」
「…相楽くんは、覚えてる?昔…私たちが山で遭難した時のこと」
「遭難?」

背中合わせに聞こえるくぐもった声に、跳ねるような驚きの色。
泉水子は静かに微笑んだ。

「以前、佐和さんから聞いたの。遊びに行った私たちが夜になっても山から帰ってこなくて、警察騒ぎになったことがあったんだって」
「そんなことがあったか?」
「うん…私も言われるまで忘れてた。…でね、夜八時くらいにやっと家に帰ってきて。 私はぼろぼろ泣いてて、相楽くんはしっかり私の手を引いて気丈だったって。怖かったはずなのに」
「……」
「――それを聞いた時、思い出したの。深行くんが泣く私を叱って、絶対に帰ると言って手を差し伸べてくれたこと」

あの時、暗闇で浮かんでいた月に彼を重ねた。
何も見えなくて恐怖の中、確かに月だけは優しく微笑みかけてくれたのだ。 ひとりじゃないから頑張れ、と、どれだけ心強い道しるべだったことか。
そんな過去を思い出して、今の深行と変わらないことに気がついた。
いつだって優しく黙って手を引いてくれる深行は、


「私にとっての『月』は…『ヒーロー』なの」


だから。だからただの月なんかじゃないよ。星よりもハートよりもなによりもずっとずっと、意味があるものなんだから。
そう伝えたいと心から口から零れ落ちるのは、自分でも知らなかった愛しさでつまった理由だ。
口にすればよりいっそう、あのチョコレートに秘めた想いが溢れだしそうな感覚に胸がつまる。

(……丸くなったと思ったら尖るのもそっくり…ってことは内緒、だけどね)

そんなこともいつか言える日がくるだろうか。 それとも、何年経っても、そんなからかいにも似た言葉に深行は怒ってしまうだろうか。
その様子がたやすく想像できてしまい、泉水子は思わず笑った。
そしてそんな自分に、泉水子は自分がどれほど深行を見てきたか、流れ去った歳月の重さを改めて感じるのだった。

(…ねえ、知らないでしょう。私だって、こういうことを考えてチョコレートを作る…『女の子』みたいなこと、するんだから)

それも、たったひとりだけを想って。
泉水子は振り返り、そっと深行を見た。
すると目線の先には、こちらに向いた目を丸くした彼がいて、思わず笑みを溢す。
わかってほしい――決して、ただの当てはめなんかじゃなく、深行が、どうしても「月」なのだ―― 泉水子にとっての「月」が、どれほど大切なのかを。
そんな想いで、深行を優しく見つめた。

遠くで、空が赤く染まる。
深行の顔も、負けないくらい真っ赤に染め上げた。勘違いじゃなければ、きっと。











彼女が口にした、思ったよりもずっと深い理由に深行は、ぽかんとした。
やがて、いつの間にか泉水子に移っていた視線は明後日の方向に動き、忙しなくさ迷う。 そうして身体はしばし固まったまま、じわじわと泉水子の言った内容を理解していった。

「……」

耳がじんわりと熱くなる――自分の訳もわからぬ焦燥の、なんと下らないことか。

『月じゃないものが欲しかったの?』

きっとこの形なのは余り物で大した意味はない、 自分は泉水子にとってそんな存在なのだと安易に思った自分がたまらなく恥ずかしくて、彼女に目を合わせることができなかった。

(穿ってしまうのは、俺の悪い癖だ――)

だからこそ泉水子の想いはいつも、斜めに見ている深行が目にする世界を、優しく色を変える。


『私にとっての月は、ヒーローなの』


今日もその、たった一言で。


「その………サンキュ…」

それに比べて、やっと口にできた一言は自分でも情けなくてカッコ悪いものだった。 熱でもあるのだろうか。いまいち決まらない。
でも。とりあえず及第点をくれよ、どこかにいる神様―――だって泉水子が嬉しそうに笑っているから。
その柔らかな笑顔を見た瞬間、深行の心はほどけて春のような気持ちになる、不思議なことに。 そうしていつのまにか自然と微笑んでいる自分がいるのだった。
手にしていた棒からするりとリボンを外し、泉水子の小指に結びつける。そのまま軽く彼女の手を握って、目線とともにそっと離した。

「…来年も期待してる」

夕陽に照らされた自分の影をじっと見つめていた。自分の言葉は、彼女の心にどう響くのだろう。
なんでもないことのようにポツリと落としたその言葉に、どんな意味や感情があるのかなんて、深行でさえ知らない。
…ただ、ただ。来年も再来年もその先もずっとずっと、こんな瞬間を夢見る。
視線をそっと横に流せば頬を赤らめて頷く泉水子がそばにいて、贈り物はどんなものだっていい―― 特別な意味があるのなら、この先もずっと彼女の『月』でいることも本望のように思う。


いまは、それだけで。








アンダンテで近づいて



(ゆっくりと、)(はじまっているから)





t. 忘却曲線


2011.02.13.aoi