想いはすべて満ちて、欠けることのないように。


そう、願うだけなのに。







「姉ちゃーん風呂あいたよー」


あぁ、さっぱりさっぱり!と気分よく階段を上がりつつ、飛鳥に声をかける。
だがいつも返ってくる返事はなく、ただ静寂に包まれるだけ 。
何事もテキパキしていて、だらけることのない飛鳥にしてはめずらしい。ミケは不思議に思い、姉の部屋をのぞいた。

ドアは全開で、暗闇が廊下にのびている。 そのまま真っすぐ前を見つめれば、開け放たれた窓から外を眺めてる姉の後ろ姿があった。
時折かすかに揺れるカーテンをのぞけば、そこはまるで時が止まったような黒の世界。 ただ、ぼんやりと飛鳥だけが白くはかなげに光っている。
遠いどこかで、リーンリーン・・・と鳴いている。少しだけまだ温い夜風が頬に触れた。
その静かな空気にのまれて、ミケは小さく呟いた。


「姉ちゃん・・・?」


ようやく秋にさしかかったころで、まだじっとりとした暑さは残ってる。 なのに、ここはどこか澄みきってひんやりと冷たい。 この冷たさは、いったい何がかもしだしているものなんだろう。
ミケの呟きが聞こえたのか、飛鳥がゆっくりと振り返る。


「ミケ・・・いつからいたの?」
「今。・・・さっきお風呂あいたって言ったけど、聞こえてないみたいだった」


そう、とひっそりと笑う姉の顔は、影にかくれてはっきりと見えない。
ミケは近づいて、飛鳥のとなりに並んだ。 飛鳥は頬杖をついて窓の向こうを見たままで、びくともしない。
そんな姉にならってミケも視線を同じ方向へやる。


「あ、満月だー!」
「ちがうわよ。よく見なさい」


一瞬はしゃいだものの、隣から冷静なつっこみが入った。
えぇー?と口を尖らせつつその言葉に従ってもう一度よく見てみると、確かに完璧な球形ではなかった。


「ほんとだぁ・・・ちょっと欠けてるや」
「明日になれば満月よ」
「ふーん」



でもさ、形がどうなっていても綺麗なものは綺麗だよね!



にっこりと満面の笑顔で、ね!と同意を求めて隣を見た。
そうしてそのまま、瞳は飛鳥に、くぎつけになる。



「姉、ちゃん・・・・なんで泣いてるの・・・・?」



呆然とした表情で固まったままのミケを見つめる飛鳥の瞳からは、ぽろ、ぽろ、と涙が流れ落ちてゆく。
完全に予想外な反応にうろたえながらも、その涙に見とれていた。目が離せない。
キラリと輝くその一粒一粒が真珠のようで美しかった。 こんなに綺麗な涙を見たことはない、と本気でそう思った。


「ミケ、・・・・・・・ありがと」


ただ涙をこぼしつづけた飛鳥の口からようやく出たのは、礼の言葉だった。
そうしている間もずっと、空にうかぶ白い月を見つめている。

なぜ、と泣いた理由をきいてはいけない気がした。
音のない薄暗い部屋の中で、月に照らし出された姉の横顔は妖しいほどに美しく。 それは月に愛されたどこかの姫のようだった。まるで、遠い遠い世界の人。
姉ちゃんが、月に連れていかれちゃう。
ふいにそう感じて、一瞬、よく見慣れた部屋がぐるりと渦巻いて見えた。
これは本当に現実?怖い、怖い。その横顔が怖い。こんなのいつもの姉じゃない。
いまの彼女に安易に近寄ってはいけない気がした。 どこかへいってしまいそうな彼女を、必死にとめたいと思うのに。
だけどどれだけ頭の中を最大限にひっかきまわしても、自分がかけてあげられる言葉なんて見つからない。 とめる術がわからず、ただ焦燥感とからっぽな自分を抱えたまま呆然と立ち尽くしていた。
自分が好きなのは笑顔をみること。笑顔にさせてあげること。でも、ここではそれはふさわしくないと思った。
・・・なんて深い闇、まるで底なし沼。考えれば考えるほど希望は遠ざかってゆく。


黙ってしまったミケに、飛鳥はポツリと呟きはじめた。
目線は月に向かったままで、それはミケに聞かせるようでいて、独り言のような。




「あれは――――あたしの恋の象徴なの」




遠くからみたあたしの恋は、例えるならきっとああいう形。
想いはあふれんばかりなのに、彼に伝わることはない。彼の想いだけ足りない。 その欠けたものを必死に自分のものにしたいのに、それが叶わないあたしの恋。
ただひとつだけちがうのは、次の夜が来ても彼はあたしのものにならないこと。


初めて聞く彼女の想いの強さに、ミケは圧倒されていた。
それと同時に、依然として月を見つめたまま淡々と話す彼女の横顔にひたすら畏怖を覚えた。
冷たい空間は、いつのまにか重く沈んでいた。 この暗い闇を、姉はいつから隠し持っていたんだろう。 呑みこまれないように溺れないようにと、いつから戦っていたんだろうか。
動揺したのかもしれない。 聞かなくてもいいことまで思わず口にしていた。


「じゃあ・・・やっぱりキューを好きには、なら、ない?」


その言葉に、飛鳥はフフッ、と伏し目がちに小さく笑う。さびしくて哀しい笑みだった。
あの子も哀れよね、と瞳がそういっている。




「ならないわ」




キューを好きにはならない。愛おしく思うこともない。彼のとなりにいたいと思うこともない。 彼の想いが叶う可能性は一ミリもない。彼に関しては”ない”ことばかりよ。
・・・でも、それ以上に悲しい”ない”をあたしは知ってしまっている。



無表情にそう呟いた最後の言葉は、風にのって空に消えた。















あたしと先生が結ばれることは、”ない”。











月 欠 け 空


(あたしを好きだといってくれたなら、月は満ちるのに)







07.11.aoi
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三宅家でのある夜。
「両想い=満月」が飛鳥の望む形なんだ、という話。
わかりづらかったらごめんなさい。