*しあわせフレーバー/イバちゃんver.







まったくもって面倒くさい、と少しそう思う。
ふう、と大きなため息をついてその場で逡巡した。
すべてうまくいくことなんてやっぱりないんだな、と改めて悟って思い浮かべるのはただひとり。 色素の薄いやわらかな髪とか、かっけつけるくせしてどこか情けない少年の姿がぼんやりと心をよぎって、 それはゆらゆらと水面のようにいつまでも揺れ続ける。
今度は小さく嘆息して、わたしはやっと歩き出した。

それはまるで彼の心のように思えて、ほうっておけなかった。








やっと見つけた。
丘につづく長い長い階段のてっぺんに、キューは腰を下ろしていた。 公園のはしっこにある自動販売機からふたつ缶を買って、またキューの近くへ戻る。
キューの肩が少しだけ震えているのが遠目にもわかった。 きっと泣いているんだろう。 風に吹かれた彼の髪はさらさらと頼りなげにゆれて、その背中に漂う寂しさがいっそう濃くなったような気がした。
そんな風にひとりで泣かないでいてほしい、本当は。 だってキューには明るい笑い声がよく似合うから。











「イバちゃん」

いつものように学校から帰ってきた時、ふいに後ろから話しかけられた。
振り返れば、わたしの心は一瞬硬直する。


「アス姉」


どうしたの、なんて聞かなくてもわかった。 それほどに彼女の笑顔は見ていて痛々しかった。 必死に傷つくまいと泣かないようにと頑張っている顔。


「・・・キューとなんかあったでしょ」


あった?とは聞かなかった。
彼女はつらいことがあっても自分で解決できる力がある。 けれど今日はわたしに話しかけてきた。自分から。 だから、おそらくキューがらみだとピンときたのだ。

イバちゃんはほんと勘がいいなあ。

そううつむきがちに呟いた彼女はやっぱりさみしそうに笑う。
アス姉。その顔をキューに向けたの?だめ。だめだよ。 そんな顔、見せられたら誰だって傷つく。
わかっちゃうよ、その瞳がなにを告げようとしているかなんて。


アス姉がキューを完璧にフッたことはもう明白だった。 きっと彼は明日からは彼女に愛を乞うことなどないのだろう。
アス姉に、ごめん。あとはおねがい。そう言われて思わずうなずいた。
そうして気がつけば桃子に店番を頼み、わたしはキューを捜し回ってここに辿り着いた。








なんて馬鹿らしい。
だってどうせ、フラれたくらいで彼の想いはなくなりはしない。 もう完全に彼女が振り向く可能性が0になったとしても、どんなに落ちこんでも、結局はアス姉を想い続けるに違いないのだから。 ただ、想いを告げることがなくなるだけで。
しぶとい、諦めない。それがキューだ。 いままで想いは変わらなかったんだ、きっとこれからもそうだろう。 そんな彼をわたしがわざわざ慰めるとか、なんて不毛なことはなはだしい。 馬鹿らしい。 そんなことをするほど、わたしはいい子じゃない。 わたしだって、好きなひとに振り向いてもらいたいと思う。 あんたに恋をして初めてエゴが生まれたんだから責任、とってよ。
そうは思うけれど。

それでも、どうしてもキューは大丈夫だと安心したくて確認したくてわたしはここにいる。


「なにしてんの」


キューのとなりに立って、彼を見下ろす。 まぶしそうに目を細めて見上げた彼の顔は、寒さと涙でもうぐしゃぐしゃだ。 イイ男が台無しじゃない、といつもの彼にならそうおちゃらけることもできた。
でもしなかった。

いまのわたしの顔はまるで能面のよう。 かたくなになっている。
なんでアス姉はわたしに頼んだんだろう。他にいるなかでなんでわたしに?
わたし、今とても嫌な感じだ。素直に頼みを聞いただけ。 そう思えばいいのに、彼の好きなひとに後始末を頼まれた、と嫌味のように感じている自分がいる。
恋なんてほんとうにいやなものだ。 なにかをひがんだり妬んだり、きたない気持ちが出てきたりして。 それはひとを本気で好きな証拠だ、なんて綺麗事で片づけられるもんじゃない。
いまのこんな自分で彼に笑いかけたくない。


だけど、泣いてつらいはずのキューはわたしの痛烈な一言にもいつものようにごちて、いとも簡単にわたしを笑わせてしまった。 ぶつぶつと拗ねたように呟くから、おかしくてつい吹き出してしまったのだ。
ああもう。どうしてそんなにわたしを笑わせるのがうまいの。 変な意地なんてどこかにあっという間に飛んでいっちゃったじゃない。
キューは笑ったわたしをなぜか不思議そうにきょとんと見ていたけれど、やがて彼も満足したように笑った。

あ、綺麗。

夕陽をあびて輝く彼の微笑みはほんとうに綺麗だった。男に綺麗とかおかしいかな。でも本当にそう思ったんだ。 まだちょっと乾いていない涙のあとも、きらきらと光って、まるで宝石のよう。
そのあとも紅茶の缶を渡してふたりで笑いあって、もうすっかりいつもの空気だった。
幼なじみだからなのかな。どんなに虚勢をはっても、結局いつもの自分に戻ってしまう。 いつだって、お互いがお互いに偽りの自分になることを邪魔する。 目の前のひとにほんの少しでも嘘をつくことすら許されないような。


些細なことにすぐ笑うキューは無邪気で。その笑顔が本当の彼の顔だと思う。 そうしてその笑顔を見られたことにわたしはほっとした。もう、大丈夫だ。 ぎゃはは、といつものバカ笑いすら出たのだから。


ふと、わたしはまた母親のようになぐさめて見守る体勢をとっていることに気づいて、心の中で苦笑する。 でも、しょうがないじゃない。いくらごちゃごちゃ考えていたって、キューの想いのゆくえとか哀しいこと考えたって。 これがわたしなんだもの。こんな風に彼のとなりにいるのがわたしにできることなんだもの。
それはもう変えられない。だったらその立場のまま、できる限り彼のそばにいよう。自分が結局報われなくてもいい。 そばにいられるだけでしあわせなのだから。そう決めた。


紅茶を口に運びながら、キューをちらりと横目で覗き込む。
キューはなぜか穏やかな笑みを浮かべて、それでいて泣きそうな表情で考えこんでいる。 その見たこともない表情が不思議で、でも新たな顔に少しどきどきする。
ふいにキューがゆっくりと呟いた。


「夕陽が沈む、な」


その言葉にわたしも前を見つめた。ほんとうだ。空はじょじょに藍色へとうつり変わってゆく。
手の中のまだあたたかい紅茶が、少し強くなった風にふれないよう、両手でぎゅっと握りしめた。
となりのキューを見れば、彼の柔らかな笑みがだんだん闇の色に隠れつつあって、息を呑む。

まだ。まだ待って。もうすこしだけ見ていたい。この場所で、彼のとなりに座っていたい。 このあたたかい空気が冷たく変わっていくなんて、そんなの、いや。 オレンジ色のこの楽園を、もっと感じていたいの。
ああ。いまここにある景色も彼も何もかもがいとおしくて、すっぽり包みこんで閉じ込めて永遠にしてしまいたいよ。





ねえ、それほどにあんたを好きになっていたなんて、わたし知らなかった。












神 様 、も う す こ し だ け



(いつか 彼の笑顔をひとりじめできるようになるのかな)







07.12.aoi