おれは多分、ひとを愛することに慣れていないのだと、そう気づいたのはいつだろう。
以前はかけらも思いもしなかったそんなことを、最近よく考える。
それはきっと、ひとりじゃなくなったからなのだ。
「――夏目くん」
「ん?…ああ、タキか」
「どうしたの?ぼんやりして。…あっ、ネコちゃーん!!!」
「ぐふうっっっ!!!!」
夏目はニャンコ先生との散歩の途中で、河川敷に腰を下ろしていた。 夕暮れに染まりつつある川をしばらく眺めていたところに、現れたのは、学校帰りのタキ。 真上からひょいと覗きこんできた彼女のセーラー服が風にたなびき、彼女の影が夏目を覆う。
だが、タキの心配そうな口調は、一瞬で目を止めたニャンコ先生への熱いラブコールへと変化した。 ぐえええ、と苦しそうにタキに抱かれているニャンコ先生の姿に、夏目は相変わらずの光景だなあと苦笑する。
――で、夏目くん、どうしたの。
しばらくしてから、タキは、くるりとこちらを向いた。 ニャンコ先生の抱き心地の良さに心を奪われつつも、ちゃんと当初の疑問を忘れていなかったらしい。 夏目の隣に座ったタキは、小首を傾げ、夏目の顔を窺う。
「なんか、考え事?」
「ああ…そうだな。ちょっと考えていた」
「…悩み事?」
「うーん…悩み事、というかなんというか…」
ついさっきまで考えていたことを説明するのは、やたら気恥ずかしい。 それが真剣かそうでないかは関係なく、ただ、自分の思考を他人に話すという行為自体慣れなかった。
けれど、タキが真剣な瞳でずっと見つめているので、夏目はそれに応えたくなっていた。 真面目にこちらの心に耳を澄まそうとしてくれるから、それがなんだか嬉しい。
両手の指をゆるく絡ませつつ、どう話そうかと言葉を探す。
「…そうだな…。タキは、いつもおれになにかくれるだろう?プレゼントとか、クッキーとか、気持ち、とか。」
「…?そう、ね。夏目くんにはいつもお世話になっているもの」
「うん。でも、おれはそういうのに慣れてなくて。 なんだかおれは…笑顔にさせてもらってばかりだな、と思っていたんだ。タキや、タキ以外のみんなに」
愛されることに慣れていない。いつも、ひとりだったから。
だから例えば、西村が家に誘ってくれたりとか、タキがいつも笑ってそばにいてくれることとか、 北本に勉強を教えてもらったりだとか、塔子さんが貴志君とうれしそうに呼んでくれることとか。
そんな些細なことも初めてのことばかりで、ひどく照れくさくて、こそばゆくて、そして…嬉しかった。 本当に嬉しくて、おれはこんなに幸せでいいんだろうかと、たまに不安になるくらいだった。
けれど、愛することにも慣れていない。…いつも、ひとりだったから。
何をしたらいいだろう。何を返したらいいだろう。みんなに何をしてあげられるだろう…どうしたらこの感謝の気持ちを持って返せるだろう。 こんなことにも、自分で答えを見つけることができない。 自分のあまりの未熟さに、夏目は愕然としていた。
そんなことをぽつりぽつりと話している間、タキは黙って頷きながら聞いていた。 そして、んー…と少し考えるようにして、口をゆっくり、開いた。
「そんなこと、考えなくていいんだよ」
「え?」
驚いてタキを見ると、彼女はとても優しい顔をして笑っていた。
夕陽のひかりが射したその笑顔は、なぜだかすごく綺麗に見えて、 夏目の心臓が小さく高鳴った。
「いいの、そんな風に思わなくたって」
「え……」
「夏目くんが夏目くんらしく生きていればいいのよ。それだけで、みんな幸せなの」
「そう、なのか?」
「うん、だって、私たちは夏目くんが大好きだから!」
だから、夏目くんが笑っていてくれたら、それだけで十分嬉しいの。
自信たっぷりにそう言って笑うタキの姿がやけにまぶしく見えた。
夏目はなんだか泣きそうになる。まぶしい、それだけの理由じゃないことも解っているけれど。
「…いいのかな」
「いいんだよ」
「何も返せなくても…いいんだろうか。返したいと思うのに、それは申し訳ない気がしてしまう」
「なにかもらったら必ず返さなきゃいけないなんて決まりはないよ、夏目くん。…あのね、ただ笑っていてくれたらいいっていうのはね、」
タキは少し照れ臭そうに笑ったあと、はっきりと、静かに言った。
『愛』っていうのよ、
夏目は目を見開いた。
(ああ…そういう…)
タキの言葉は、すとん、と心にまっすぐ落ち、妙に納得してしまう。
ふふ、と楽しそうに笑う彼女に――夏目は、一生タキには勝てない、と思った。
「…タキ」
「ん?」
「…ありがとう」
「…ふふ、どういたしまして」
「うん」
「なんか照れるね、こういうの」
「ああ」
タキは、ネコちゃん可愛いー!と未だ腕の中のニャンコ先生の毛並みに、勢い良く顔をうずめた。 いきなりどつかれたからか、ニャンコ先生は再びカエルが潰されたような声を出した。
――かわいいな。タキのその照れ隠しとわかる仕草に、夏目は思わず微笑む。しばらくタキとニャンコ先生が戯れる様子を見守っていた。
やっぱり、彼女からもらってばかりだと、夏目は思う。
タキがくれる言葉や行動は、いつも夏目の心を温めてくれる。 時には今のように、迷い戸惑う夏目の前に現れては、明るく笑って、強く優しく道を指し示してくれる。 彼女が笑えば、自然と夏目も笑顔になる。心が安らぐというのだろうか。タキは、そういう気持ちにさせる、不思議な女の子だ。
…救われているのだ、タキには。いつでも。失くしたくない、大切な。
するとタキは、突然むくれたように夏目を見た。 ニャンコ先生にくっつけた顔を離さないまま、上目遣いで夏目を見るその様は小さな子どものようで、夏目は口元をほころばせた。
「でも、それは私の科白なのよ。夏目くんには感謝してもしきれないもの」
「そうか?」
「そうよ。夏目くんがいなかったら私…今頃こんな風に笑うこともできなかったわ。 もしかしたら、生きていないかもしれない」
川の向こう、遠くを見て呟くタキは、きっと彼女の人生を変えたあの恐ろしい妖を思い出しているのだろう。
もしも、夏目が現れなかったら。彼女が夏目の名前を呼ばなかったら。どうにもならなかったら―― そう考えると今でもぞっとするのは、夏目も同じだった。 巻き込まれた側とはいえ、明るく楽しそうに生きるタキを知ってしまった今では、夏目でさえ背筋が凍る思いを味わう。
夏目は控えめに、タキの手を上から握る。もう大丈夫だとでも言うように。
タキがハッと我に返ったように夏目を見て、そして困ったように笑った。
「ごめんなさい、こんなこと言って。…でも、本当に…いつもありがとうって思っているのよ」
「うん。それはおれも同じだな。…ありがとう、タキ」
「あ、もう、夏目くんたら、また言う!」
夕陽の光の中で笑う彼女は、もういつもの明るいタキだった。
そしてその笑顔に、やっぱり夏目も微笑んでしまう。
風がやさしくふたりの間をすり抜ける。ニャンコ先生が気持ちよさそうに喉を鳴らし、目を細めた。
何もしなくていい、ただ笑っているだけでいいのだと彼女は言うけれど。
それでも思う、いつか、と。 まだまだどこまでも未熟な人間だけれど、いつか、 いつの日にか、与えることのできるひとになれたら。 彼女にもらうばかりでなく、支えてもらうばかりでなく、愛を伝えられるひとになれたら、と。
そう思うのは、傍らにある陽だまりのような温かさが、なによりも心地好いからだと知っている。
おれはひとりじゃない。今日も誰かが傍にいてくれる。
そのことの幸せを教えてくれた、きみの温かさが。
返さなくていいよ、
愛さなくていいよ、
そのままのきみでいてくれたらいい。
(それでもいつか、と願ってしまうのは)
愛さなくていいよ、
そのままのきみでいてくれたらいい。
(それでもいつか、と願ってしまうのは)
09.11.12.aoi