「いいよ…」

泉水子の細い指先が、そっと深行の頬に触れた。わずかな灯りが少女を照らし、 ぼんやりと水をたたえた瞳と肌が浮かんで見える。ゆらりと…黒い瞳がためらうように揺れて、やがてまっすぐに深行を見つめた。

――あなたがのぞむなら、思い通りにしてくれてかまわない

夜に潜む色を含んだ空気が、一瞬のうちに迷いを振り切らせた。
ギシッと軋んだ音とかすかな驚きの悲鳴。
深行は、ただ強くがむしゃらに引き寄せた女の身体をかき抱いた。頬にすり寄せるように、自らの身体に取り込むかのように、 あるいは、どうにかしてひとつになろうともがくように。全身で彼女を感じる。
まるで獣のようなその激しさに、泉水子は震えてしがみついた。スイッチを入れたのは自分だとわかっている。 その行為に羞恥を覚えるけれど、こうして全身で抱きしめられて安心した。 見えない未来に怯えている。姫神も、なにもかもが怖い。いま彼から離れたら、心も離れていきそうな気がして必死に求めた。



おねがい、そばにいて。そう呟いたのは深行だったのか、泉水子だったのか。わからなかった。


あなたがそれをのぞむなら

(――この身体、心ごと好きなようにして)


t. まよなかワルツ






「え?明日、相楽と出かけるの?」
「うん…映画見ようかって。あと、海も見てみたいって私が言ったの」

お昼休みの時間、カフェテリアにてご飯を選びながら週末の予定について話す。
どうやら真響は買い物に誘いたかったらしく、残念と肩をすくめた。 そして、こういう時に限って、彼は運良く姿を現わすのだ。 まるで自らいじられにいく芸人のようなタイミングの良さに、泉水子は心の中で憐れんだ。
真響は『デートするんでしょ?いいわねえ』と女神の微笑みでちくちくと刺すように始め、 最後は『無事に帰しなさいよ』と凄みをきかせた笑みで締めた。 おそらく傍目には、深行が大変愛想良く真響に話しかけられているとしか見えないだろう。 そうして男子に嫉妬と羨望のまなざしを深行に注がせて、果てには妬まれるように仕組んでいた。一種の嫌がらせである。
それがわかっている深行はというと、すでに諦めていた。 とりあえず彼にできるのは、泉水子がいかに自分に惚れているかを自慢することぐらいだ。 『自意識過剰』だとあっさり斬られて、可哀相なものを見る目で見られて終わるのだけれど。



先に行くね、と真響がテーブルに向かう。残されたふたりはゆっくりと飲み物を選んでいた。 口ではああ言いながらも、真響も気を遣ってくれているのだ。クラスが別なために滅多に会えないふたりのために。
泉水子は小さく微笑んだ。だからあいつは嫌なんだと深行は溜め息をついた。こういうことができるから完璧に嫌えない、と。
少し話して、別の人との待ち合わせのために離れた深行が、「ああ」と思い出したようにまた戻ってくる。 泉水子は首を傾げた。なあに?と問えば、自分よりもおおきな影がゆっくりと覆いかぶさってくる。

「外泊届け、出しとけよ」

ぼそっと、耳元に熱い息が落とされた――それだけで身体中が燃える。
なにいってるの、と慌てて抗議しかけたその時には、すでに彼は背中を見せていた。ひらひらとこちらを見ずに手だけ動かす。
泉水子は、心配した真響が迎えにくるまで呆然と突っ立っていた。
当面の問題は、真響になんて言うのか、午後の授業までにこの赤い顔をなんとかできるか。ああ、それよりも、


――明日はどんな顔をして深行に会えばいいのか。




ユア キス キル ミー

(きっと明日、心臓がとまる) t. is,