懐かしい空気は夜になっても変わらないと思う。
ほんの少しだけ、つめたいそよ風が泉水子の頬を撫で、心地好さに目を細めさせた。
帰る場所があって、それがこの玉倉山であることが、改めてじんと胸に沁みる。
この山から出る気になれなかった数年前の引っ込み思案な自分が今では不思議だった。 あの頃に比べれば、ずっと広い世界を知っていることも。

「髪、ほどいて大丈夫なのかよ」

呆れたような声がふいに聞こえて、泉水子は振り返った。
窓の向こう、明るい光の中に深行が立っていて、こちらを見ていた。
それを目にして、自分が窓の外に出ていたことを今更ながら思い出す。

「寝る時ぐらい、さすがにほどくよ」
「寝てないだろ」
「だって風が気持ち良いんだもの。つい外に出ちゃったの」

風邪引いても知らないぞ、と先ほどと声の調子を変えず、それでも深行は、窓の柵を越えて隣に座る。
自分が今座っているこの屋根は急な勾配ではないから、泉水子はふと思い付いて窓から乗り移るに至った。 身体全体で直に空気を感じたくなったのだ。
もっとも、こういった大胆な振る舞いは、玉倉山を出てからのこと。 帰省するたびに懐かしく思うから、まるで故郷の空気を手に入れたいかのように動くようになった。
離れたからこそ、今では玉倉山の良さが身に沁みて解る。

「意外におてんばだな。屋根の上なんて佐和さんに見つかったら大目玉だぞ」
「うん。でも屋根よりベランダの感覚だけれど」
「どこが」

屋根だろどう考えても、とつっこむ深行に、泉水子は頭が固いなあ…とこっそり思う。
後が怖いから口には出さないが。
――以前なら、小さくむくれるだけだっただろう。 だが今では少し笑って、深行くんはこういう人だとすんなり受け入れてる自分がいる。
こんな些細なことにも、それだけの時が経ったのだとしみじみ感じさせられた。
深行が、ふいに手を伸ばし、

「髪、伸びたか」
「ううん、全然。ここまで長いとなかなか伸びないよ」
「ふーん」

深行は、ゆるやかに波打っている長い髪を一房つかんで、柔く指で弄んでいる。
触れられた瞬間、わけもわからず心臓が高く跳びはね、今もバクバクしている。
されるがままの泉水子はなんだか落ち着かなかった。

(何だろう、この感覚…)

すごく、恥ずかしい。
触られているのは髪なのに、心も身体も撫でられているような気がした。 深行の細長く、がっしりとした大きな手を思い浮かべ、更に頬に熱が集まる。

(なにを考えてるの、私)

そんな泉水子の気持ちなど察することなく、深行は物珍しそうに触れている。 母親と離れて育っただけに余計そうなのだろう。
やがて、深行がようやく手を離した。珍しく深行から語り出す。

「最初おまえを見た時、今時サムソンかよって思ったんだよな。まさかなって思ってたら本当で驚いた」
「ああ、サムソンとデリラ…深行くん、外国の宗教にも詳しいの?」
「へえ、鈴原が知っているとは思わなかった」
「あのね深行くん…馬鹿にしないでくれる?」

ため息をひとつ吐いて、泉水子も自らの髪を見た。
サムソンの、男でありながら長い長い髪を思い浮かべる。
その髪には神の力が宿るために、サムソンは生まれてから一度も切らなかったのだ。

(…確かに似ている)

泉水子にも、髪を短くするという経験はないに等しかった。せいぜい切り揃えるくらいだったのだ。
そして姫神という摩訶不思議な存在を身にまとい、髪を切れば異変が起きたことを思えば、深行の思考は頷ける。

「現実にこんな子がいるなんて信じられないって、そればっかり思ってたよ」
「私は深行くんのこと、意地悪で怒りっぽい子だと思ってた」
「なんだよ、それ」
「…今も、だよね」
「おい」

軽口を交わしながら、泉水子は改めてくすぐったい心地だった。

(不思議だ)

出会ったあの頃よりずっと、こんなにも自然に他愛もないことを話せるなんて。夢にも思わなかった。

(深行くん…気付いてる?)

前とはずっと違う、柔らかな空気が二人の間に流れること。
深行がふと笑みをこぼせば、泉水子はその瞬間、安心するのが日常になった。
そして、手が、なんとなく寄り添い合うこと。 触れないけれど、ほんの少し触れたい気持ちが、身体を深行の傍に近づけさせる。
そこまで思って、泉水子は小さく首を振った。
たぶん深行はそうじゃない。自分だけの衝動で、きっと深行が知れば嫌悪感を抱くに違いない。
ふたりで共有する気でいたことを恥じたあと、そっと、深行を見た。
すると同じタイミングでこっちを見てきた深行に、心臓が跳ね返る。慌てて視線をそらした。

(びっくりした…)

でも――期待してしまう。泉水子の瞳が深行に吸い込まれることは自然すぎるくらい自然なのだけれど、深行はどうなのだろう。
あなたも同じ気持ちですか。そう、そっと問いかけたいけれど。深行は、きっと。
けれど、深行は目をそらされたことが不満なようだった。これには泉水子も予想外で、また驚く。

「どうしたの、深行くん。不機嫌になっちゃって…」
「別になんでもない」
「深行くん。思っていることは話すって、ふたりの決めごとでしょう」
「……鈴原は」
「え?」

拗ねた子どものような顔つきと不機嫌さが混じったような顔で、深行は泉水子を見つめていた。
泉水子は、しぱしぱと目を瞬かせる。

「鈴原だって、さっきから何か言いたそうだ」
「え…な、何もないよ」
「…ふうん。じゃあ人のことは言えないな」

深行のツン、とした空気に、泉水子は泣きそうになる。
いつもいつもこうだ。泉水子だけがひやひやさせられて、割に合わないと思う。
だけど、それでも、もう遅いのだ。泉水子の世界は、すでに深行を中心に回ってしまっている。
頭は次の瞬間、深行をどうしたら喜ばせられるか考え始めてしまうのだから。

(だって、深行くんしか、いないんだもの)

「………サムソンって、デリラに騙されるじゃない」
「え?…ああ。惚れた弱みで秘密を言ってしまうな」

(サムソンの女版が私なら、デリラは)

「なんだ、突然。それがどうかしたか?」
「ううん…」


「深行くんがデリラなら、騙されてもいいな、と思っただけ」


とたんに、深行の、ひどく驚いた顔。
思った通りの反応に、泉水子は心の中でこっそり微笑む。
その顔が好きだった。いつも完璧なまでに優れた彼が見せる素直な隙だから、見られると、どんな出来事より嬉しかった。

(…デリラは深行くんしかいないの)

物語のふたりは結ばれることはないけれど。それでもサムソンが恋に落ちる相手はデリラ、ただひとりなのだ。

「…鈴原」

深行が真剣な面持ちで見つめてきたから、泉水子も同じように視線を合わせる。
そうすると深行は、必ず少し顔を反らすのだ。深行は、まっすぐ見つめられると弱い。 それに気づいた泉水子は、以来わざとそうして困らせたくなる。
深行の顔が少しだけ赤くなっているような気がしたけれど、闇の中だ、気のせいだろうと泉水子は思い直した。
やがて深行がぽつりと言葉を落とした。
流れては消える星のような、かすかな煌めきを持って、それは泉水子の胸の中で、まぶしく瞬く。
花火のような、鮮明さを持って告げられたその一言を、生涯忘れはしないだろう。


「…誘惑、してやろうか」


深行の言葉に一瞬目を見張り、そして、小さく嬉しそうに困ったように微笑んだ。
身体中を熱が駆け巡り、胸がせつなく締めつけられる。

すきだ、と思う。

それは泉水子だけの想いか、それとも。
解らなくても、二人の肩はいつのまにか触れ合って、やがて。
月に照らされたふたつの掌の影が、ゆっくりと重なった。


泉水子は、目を閉じて願った。
深行の気持ちが紡がれる先にあるもの。
それは、デリラのような残忍さではなく真の愛情でありますように、と――だって、騙されたいなんて、言葉のあやだ。
泉水子はもうずっと昔から、深行の気持ちが欲しかった。












ス タ ー リ ー ヘ ヴ ン



(わたしをさらって)









2010.06.20.aoi

t.Rachael

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何度目かの里帰り