あゞをとうとよ 君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも、…


泉水子の静かな声が、教室に響く。
さらうように流れるその言葉に、深行は揺れる瞳で、なんとなく黒板をじっと見つめた。





「――珍しく当たったな」
「え?…ああ、現国のこと?」
「そう」

昼になり、カフェテリアは人で溢れていた。
各々食事を手に取る中で、深行は泉水子の隣に座ったのだった。向かいでは宗田姉弟が、ぎゃんぎゃん口論を交わしている。
深行は気にせず、割りばしをパキン、と綺麗に割った。

「なんだか印象に残るな、あの歌は…中学の頃から何度も聞いたけど」
「相楽くんもそう思うの?」
「悪いか」
「え、ううん。ただ、ちょっとびっくりしちゃって」

俺だって人並みの心を持ってるんだけど、と深行に眉を寄せられて、泉水子は慌てて肩をすくめる。
今日の現国は戦争をテーマにしており、ひとつに与謝野晶子が弟に贈った歌があった。
音読したのは泉水子だが、別にだから気に留めた訳でもない、と深行は思う。
ただ、泉水子のか弱いような女性ならではの声が、晶子の歌と重なって。
歌に込められた悲しみを、ちゃんと聴いたような気がして、思いがけず胸が熱くなったのだった。


あゝ君死にたまふことなかれ…
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや…


――家族を戦場に行かさなければならなかった姉。戦火に自ら飛び込まなければならなかった弟。
泉水子はサラダを口に運びながら、想いを馳せる。
戦うということは、大切なひとがどんどん消えていくことだ。 帰ってくる保証なんて、どこにもない。もしも、あの頃の人々の願いが叶うとしたら、百%の保証が何より欲しかったに違いない。
国よりも何よりも貴方が大切なのだと、歌は語っていた。
幸い晶子の弟は生きて帰ってこられたようだが、未来なんて誰にもわからないのだ。 張り裂けそうなほど切実に願わずにはいられないだろう。
ただ、想像するには、あまりにも自らが生きるこの環境とは懸け離れすぎている。 笑い声がこだまする、この光の中のカフェテリアと両極端なことに気が付いて、軽く目眩すら覚えた。
まるで、あの時代から現代にタイムスリップしてしまったようだと思う。
…それでも、これだけはわかる。

「私も、もし…相楽くんを送り出すとしたら、同じような歌を詠んだと思うな」
「…戦争に行かせるために俺を育てたんじゃない、ってか?」

ぶっ、と泉水子は珍しく噴き出した。
深行の真面目な顔がおかしい。

「なに言ってるの、相楽くん。そうじゃなくてね? …いかないで、死なないでって…言ったと思う」

たとえお国柄、名誉な振りをしていても、きっと皆解っていたはずだ。 男は死に向かい、女は死なせに送るのだと。
国に逆らう事が許されない世の中で、晶子は誰もが伝えたかったことを言葉にした。
泉水子は、そんな晶子が素敵だと思う。
深行はしばらく黙ったあと、ぽつりと漏らした。

「そうだな。多分、俺も逆の立場なら同じことした」

いつになく素直だ。泉水子は目を丸くして深行を見た。
今日の深行は攻撃性もなく、いつもと違って意外なことばかり言う。

「私が戦いに行くって言っても?」
「ああ」
「相楽くんのお父さんが相手でも?」

とたんに、かの息子はちょっと嫌な顔をした。…やはり、わかりやすい。
けれど、やがて深行は諦めたように、息をつく。



「…関わった人間がいなくなることを、惜しまない者はいない」



泉水子は食べるのも忘れて、まじまじと深行を見つめた。
なんだよ、と問われてやっと、手を動かすことを思い出す。
『惜しまない者はいない』…じんわりと深行の言葉はやさしく心に溶けて、泉水子は知らず微笑んでいた。

「…そうだね。相楽くんだって、きっと泣くよ」
「泣きはしないな」
「そんなの、わかんないよ」
「いや、俺は泣かない」
「…頑固だね…」

妙なところで素直じゃない。
すこし呆れながらも、笑って食事に目を落とした。



――いつかは、このなにかを味わう行為もできなくなる日が来るのか。
泉水子は、シャリ…と音をゆっくり立てて、オレンジを噛みしめる。
深行は、泣いてくれるかはわからない。でも、自分がいなくなるとすれば、悲しんでくれるのだ。
深行にとって、自分はどんな存在なのかと思っていたけれど…それだけの人になれている。
泉水子は、またひとつ、みずみずしい果物を口に含んだ。
そして、すこしだけ、泣きそうな気持ちになった。
あまりにも、美味しくて。


深行は、すでに昼食を腹の中におさめ、コーヒーを啜っている。
自分がもしもあの弟の立場だったなら。
あの歌のように、いかないで、と彼女は言ってくれるらしい。
もしそうなったら、その時の様子が簡単に想像できる。きっと涙をためて、曇りのない真っ直ぐな瞳で訴えてくるだろう。
心はその姿に揺らいで、多分、抱きしめたくなる。
――深行はハッとして、浮かんだその考えを消すように、頭を振った。
…でも、不思議だ。ふいに、なんだか隣の彼女がいとおしくなったような気がする。





そうだ、こうして食べることも、隣に誰かがいることも当たり前じゃない。いつかは消える時間だ。
その「いつか」が必ず来るのなら、それがいつ訪れるかもわからないのなら… 出来ることはただひとつなのだと、深行は悟っていた。





「…鈴原。明日、空いてるか?」
「え?」
「前に、駅のそばのケーキ屋に行ってみたいって言ってたよな」
「…うん!」










(やさしくなれたら)



もっと、大切にできたら。





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すこし、異色のお話です。
そして奇しくも、今日はある2つの悲劇と同じ日にちであり、十年・半年経ったという区切りの日です。
彼らが生きたかった明日を、私たちは無駄にしてはいけないという想いを忘れないように、と。
意識しながら作ったお話でした。

2011.09.11.aoi