変だ、と思った時にはもう遅かった。
完全無欠なまでに優秀な彼が到底しそうにない甘い瞳をこちらに向け、ひどく優しく名前を呼ぶ。
周りに薔薇が見える。その場にいた者の心の声いわく「誰これ」状態だ。

「さ、相楽くん…?」
「鈴原」

こっちこい。そう言って泉水子を引き寄せた深行の顔は、衝撃を与えた。 顔をのぞきこまれて、それがそんな表情でなければ、こんなに動揺はしなかったはずだ。
――つまるところ、泉水子がさっと真っ赤になるくらいには破壊力のある微笑みだった。
掴まれた腕から、燃えるようにひどく熱い。

「み、深行くん、しっかりして?やっ」
「なんだ」
「なんだ、じゃなくて…!」

ぼふっと腕の中におさめられた。顔にあたる胸がしっかりしている。大きな鼓動が伝わってくる。 この時点で、泉水子の頭はキャパオーバーだというのに、さらに腰に腕がまわり、きつく抱き締められた。
真っ赤な顔で抗議するも、効果はない。それもそのはず、深行はいまや完全にいつもの深行ではないのだ。
どこからか高柳一条が出てきて、面白そうだからという理由で彼にとある術をかけた。その結果がこれである。
幸い授業は終わっており、支障はない。 が、この「ほんま誰やねんこいつ」とキャラを無視して思ってしまうような彼の人格こそが、今後の弊害かもしれない。 誰もかれも、ずっとこのままであれば彼とはやっていけないと思った。

「ちょっと泉水子ちゃんに何してんのよ相楽!なんなのよあれ、うっとりしちゃって気持ち悪いんだけど」
「うわーシンコウってこんなデレデレになんの?気持ち悪いなあ」
「うーん…。おかしいね。こんな結果が出るとは思わなかったな」
「あんたね、一体どういう結果を求めていたのよ」
「俺様になるというか暴力性が出るというか、とりあえず人気と信頼を失うような一面が出る予定だったんだよ」
「オラオラな感じならすでにたまに出てるわよ、だから効かなかったんじゃないの」
「なんで失敗しちゃったんだよ。見るんなら、これよりそっちの方がまだマシだったじゃないか」
「早くなんとかしなさいよっ、気色悪すぎてトラウマになったらどうしてくれるのよ!」
「鳥肌がひどいから本当なんとかして戻してくんない?」
「わかったよ。僕も正直見ていて耐えられない」

誰がどの反応をしているかはおして知るべしである。
その時、その場にいる人間はそろって固まった。やあっ、と艶をわずかに含んだ声に、ギギギ、と身体を必死に動かす。
見れば、深行のしっかりした手のひらが泉水子の背中から腰へと輪郭をなぞるように触れている。 そのなだらかな動きがかえっていやらしく、いつもの学園からまるで違う世界に入り込んだかのようだった。 空気が桃色に見えて、三人は意味もなく焦る。
おい、えろいわ相楽。そのえろい手つきをやめろ。
深行はその精悍な顔にとろけるような笑みを浮かべた。鈴原、と声をかける深行は本当に愛おしそうに泉水子を腕に抱き直す。 その様子に、三人は立ちつくすしかなかった。
チュッ。

「…………へ?」

聞き慣れない音に呆けた声を漏らしたのは三人だったか、泉水子だったのか。とりあえず全員、再び固まった。
泉水子は息も絶え絶えな中、考えた――なにしろ身体をまさぐるように触れられて、 身体の奥がときめくように鳴いている―― 深行の腕の中に抱えられてしまっている自分には、感触しか手がかりはない。
頭のてっぺんからわずかな温もりと音が離れた、ように思えた。

「鈴原……可愛い」

額にもおなじような感覚。ちゅっ、と音を立てて、やわらかなぬくもりが幾つも顔に降ってくる。 その間、彼はずっと鈴原、と名前を呼び続ける。 耳元に触れる艶めかしい吐息と、かすかに呟かれた「鈴原、…すき、」の一言が聴こえた瞬間 、もう無理だと泉水子は完全に意識を手放した。
彼がやりそうにないことだらけだ。
はやく元に戻してあげて、と倒れるまえに力無く告げた。










保健室で泉水子が目覚めたときには、深行の顔はすっかり憮然としたものになっていた。
どうやら、眠っている間に高柳が元に戻してくれたらしい。聞いたところによると、高柳はしっかり殴られたようだ。
こうしてめでたくいつもの深行になったが、術による変化については誰に聞いても顔をそらして答えてもらえなかったらしい。
やはり普段の表情が豊かでない人間が甘いマスクの王子様ばりにとろけるというのは、相当なトラウマになったようだ。
かくいう泉水子も、黙秘権を貫いた。いくらお金をつまれたとしても、砂糖の致死量を超えたような深行の様子など説明できない。 いろいろと衝撃的すぎて、しばらく思い出すのも拒否しそうだ。
…本当の理由は、心臓に悪すぎるというところなのだけれど。

「どうした?…顔が赤いけど」
「えっ!?な、なんでもないよ。それより、本当にいつもの相楽くんになって良かった」
「…なに、そんなに安心されると気になるんだけど?術にかかった俺は良くなかった?」
「ううん、本当になんでもないの!深い意味はないから、気にしないで!」

怪訝そうな深行には悪いが、一生の秘密として墓場に持っていこうと決意した。
ひたすら普通の態度を心がける。これでまたいつもの日常がはじまれば、それでいいのだ。









「たとえ術のせいでも、あんなことするかっての…」

実は、術にかけられた間もしっかり記憶はあった。 翻弄されたのは確かだが、かといって意思を無理やりねじまげるほどの強制力がある術ではなかった。
恥じらいつつも、何事もなかったようにする泉水子の様子を思い出して、少年は長い長い溜め息をついた。
力任せにベッドに寝転がるそれは、まるで不貞腐れた子どものようであったと、後に同室の少年は語った。







困惑のラブ・モーション



(うそなんて)(いってない)





2012.05.26.aoi