※後夜祭のできごと







ただその手を重ねられたら、それだけでいい。
いつもそれだけで、なにも怖くなかった。





「本当に、おまえは何をしているんだよ」
「まだ言ってる…」
「当たり前だろう。あんな風に目立って、目をつけられたらどうするつもりだったんだ」

深行からことごとく向けられた叱責の言葉に、泉水子は小さく肩をすくめた。
学園祭は残すところキャンプファイアーのみになり、 泉水子たちがいる二階の教室から見えるグラウンドには大勢の生徒が集まり始めている。
――確かにそう言われると泉水子は反論できなかった。 これで興味本位で近づいてきた奴に秘密を嗅ぎ付けられても文句は言えない。 泉水子は自分に近づく奴などいないと思ったが、それでも万が一ということがあるのだと。

(…やっぱり姫神のことを心配してるだけ、なのかな…)

すこし違っていたらいいのにと、かすかに期待をしてしまう。
泉水子の頬が僅かに熱くなって、けれどそんな心情とつい漏れ出た反応に眉を寄せたくなる―― 彼が自分を気にかけるはずはない。こんな期待など邪魔なだけなのだ。
深行は知らない、泉水子がミスコンに出る気になった訳など。 女ゆえのささやかなプライドのために、そしてそのプライドに深行が関わっているために出たなんて、 一生言えやしないと泉水子は思った。 この仕返しじみた行為が成功となったかはいまいちよくわからないから尚更。
深行は泉水子の心あらずな様子を読みとり、目付きを鋭くした。

「…真面目に聞いてるか?」
「え、うん…もちろん、聞いてるよ」

だが返事を聞く前から、深行はもう呆れているようだった。 ため息をついて、つっけんどんに返す。

「おまえが自分で蒔いた種だ。このせいでなにかあっても俺は助けないからな」
「やっぱり意地悪…」
「なにか言ったか」
「ううん、なんでもない」

なにかあってもこれのせいとは限らないのではと思ったが、特に逆らわないことにする。

(全く…ちょっと気にしてくれてると思ったらすぐこれだ…)

泉水子も小さく息をついた。
彼の相変わらず凄まじい豹変ぶりにようやく慣れてきたと思っていたが、 やはりまっすぐにぶつけられると少々厳しいものがある。
だが、一度泉水子をはね除けといて自分から助けに来てくれたこともあるのだ。 それを思い出すと、やっぱり、彼は。
…そう思えば心はまた彼に傾いたように、ほんの少し胸が疼くから不思議だった。

突如、遠くから歓声が聞こえた。外を見ると、キャンプファイヤーが灯され、音楽が流れ始めていた。 生徒が手をとり、輪になる。

「深行くんは行かないの?」
「一緒にはしゃぐ生徒会があるか?」
「…ない、かも」
「ないよ」

小さく告げられた正解に納得して、目線を外に戻す。
窓枠に両腕をおいてしばらく眺めていると、隣からかすかに息を吐く音が聞こえた。

「鈴原」
「?」
「ほら」
「…え?」
「なんだよ、その目は。…さっきから、ずっと外ばかり見てただろ」

どうやら、泉水子の言葉と態度から悟ったらしい。
踊りたいとまでは思わなかったが、ひとり舞をする身としてはどうしても幾分かそわそわしてしまっていたのは事実だった。
しかし、目の前に差し伸べられたその手に戸惑いは隠せない。訳も分からず焦ってしまう。

「そうだけど…あの、だって、深行くんがそんなことすると思わなかったから」
「…はあ…――いいからこい。面倒くさいことは嫌いだ」

本当は泉水子の横顔になぜか虚をつかれ、気づいたら口にしていたとは泉水子には知るよしもない。 魔がさしたのだと言い聞かせて、手をより前に突き出したということも。
泉水子はそれを見て、恐る恐るではあるけれど、その手にそっと自身の手を重ねた。 その瞬間、きゅ、と小さく包み込まれる。 それは頼りないほどの触れあいであるというのに、温かく、安心する。

(前にもこんなことがあった…。そのたびに、私は…)

懐かしい、けれど心は今でも確かに覚えている温もりだ。
泉水子は深行を見た。まっすぐ見つめれば、深行は少し狼狽えて、さりげなく目を反らした。 ちらっと一瞬、泉水子に目をやり、無愛想に言う。

「…いくぞ」
「え、きゃっ…」

曲が変わったとたん手を引かれ、ぐっと腰を引き寄せられる。 急に近づいた深行の身体に泉水子の心臓が口から飛び出しそうになったけれど、身体は自然と深行に導かれてするりと動き始めた。

「……!」

それは不思議な感覚だった。 授業で習ったフォークダンスでもぎこちなかったというのに、より足は軽やかにステップを踏んで、 くるくると目にする景色は万華鏡のように輝く。
なぜだろう。世界が一気に鮮やかに色づいたような錯覚に陥る。

(すごい…私、お城にでもいるみたいだ…)

深行との身長差も感じず、流れるように優雅に、ふわりふわりと動くそれは、深行のリードが最高であることを示していた。
本当に、彼はなんでもこなしてしまうと感嘆する。

「社交ダンスなんて…どうして知っているの」
「中等部で習った。この学校では必須だ」

なんでもないことのようにさらっと答える間も、深行は事も無げに泉水子を巧みに完璧に踊らせる。 まるで自分も最初から踊れるのだと勘違いしてしまいそうで、ふたりで踊るとはこういうこともあるのだと泉水子は感心した。
目の前にパートナーがいて、共に踊ること。 日常の自分からかけ離れたその行為は思っていたよりずっと甘く、 伏せられた深行の瞳が時折泉水子の目を射るたび、心臓は鋭く貫かれ、背中に淡い痺れが走る――くらくらしそうだ。 普段よりもずっとずっと近くにいるからだと気づいて、一気に心臓の音が大きくなる。息が、詰まる。
それでも俯くことなく深行から目を離さず――泉水子はいつのまにか笑っていた。楽しい。
深行もそれに気づいて、いつものきつい顔立ちが柔和になり、口端が小さく上がった。眼差しがとろけるように柔らかくなる。

まだ。まだもう少し終わらないでほしいと願った。
今はしっかりと握られたお互いの手が、離したくないほど熱くて心地よかった。
振り返れば、今も感じているこの大きな手に触れると、包み込まれると、何も怖くなかった。 ひとりじゃないと、前を向いていられた。 それは泉水子にとってはいつのまにか失いたくないと思っていた、たったひとつの魔法。




音が途切れ、曲は唐突に終わりを告げた。 二人の身体も止まり、泉水子の腰にあった手も離れた。
が、二人は同時に、握りあっているお互いの手に気づいてなぜかぎこちなくなる。 離すか離すまいか迷っているようで。 何か言えばこの温もりが瞬時に消えてしまいそうに思えた。
でも泉水子はどうしても言いたかった。 拒否されることを恐れたけれど、勇気を出して繋いだ手を見つめて、そっと力をこめる。 一瞬、深行のびっくりした気配がするけれど、彼はすぐに気を取り直したようだった。
今流れているこの少しだけ温かみを含んだ空気が壊れないように、小さく話しかけた。

「…あのね、深行くん」
「…なんだ」
「私、いつも深行くんの手に感謝してるの」
「…手?」
「うん。…いつも明るい場所に連れだしてくれる気がする。 ひとりじゃないって思える…。だから、深行くんと手を繋ぐのはとても心地よくて……好きだって、思うの」

「いつも…ありがとう」

思いきって顔を上げれば、そこには、なぜか固まった深行がいた。 かすかに頬が染まっていて、ありえないものを見るような目をしている。
そんなに変なことを言っただろうかと泉水子は心配になった。
やがて深行が苦々しげに目を反らして、弱々しく宙に浮かんでいた彼の手に力がこめられる。 ちゃんと、泉水子の手を包み直すかのように。言葉はなくても、その優しく力強い仕草だけで十分だった。
先ほどよりも熱い温もりに、お互い気恥ずかしくて顔を反らし合ったまま。 けれど、その温もりはほどかれないままだった。




――泉水子は知らない。
彼女の小さな手がいずれは世界を変えるかもしれない力を持っている。 一方でその手はごく普通の内気な少女のもので、この先、果たしてどちらのままに形を変えるのだろうと思う。
けれど、泉水子が恐怖に震える時、安全な場所に連れ出す時、必要とあらば握る時その手は、 いつも躊躇いがちに傍にいて、自分を頼る十五歳の少女のままでいてほしいと深行は思う。 そうすれば、なにがあっても大丈夫な気がした。 父親にも非現実的な日常に負けることなく、こんな非力な自分でも守り通せるのではないかと。
そんなことを思っていることなど、深行は一生言うつもりはない。 言ったら確実になにか変わるような気もしたし、なにかに負けた気持ちになる気がした。
そして、こんな気持ちを持っていながら、別のところでまだ彼女と距離を詰める気にはなれない。だけど。

ただ手を重ねるそれだけで、泉水子の希望となるのなら。 臆病な世間知らずの娘に留まることなく、しっかり前を見据える強さを持とうとするのならば、 いくらでもこの手を握ってやると思えるのだった。
今はまだ、しょうがないからなと言い訳をしながら。













愛 は そ の 指 か ら 生 ま れ る



(いつかは、いとおしみながらその手を)





これからもきっと、 この手を繋いですべて乗り越えていける。







t.tiptoe
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手を握るふたりが大好きで大好きで生まれたお話。
一緒に踊ったりするのは面倒くさくないんだね深行くんvとか お互いに言えない小さな秘密を持ってるふたりとか。


09.12.25.aoi