失うことはつらい。
いつかこんな日がくると、詩春はいつからか、わからないふりをして目を背けていたことに気づいた。
おかえりなさい、と嬉しそうに重なるその声はかけがえのない宝物、それなのに。




「しはるたん、どーしてぇ?いかないの?」
「しはるたんもいっしょー!」

不思議そうに哀しそうに見つめる四つの瞳は、今の詩春にはとても痛い。 落ち着いて説明するためには、溢れそうな涙を必死に抑えるしかなかった。ただ、ごめんね、と何回も謝る。
もう、いままでのように毎日会うことはない。 戻ってきた双子の父親は、新しい土地で双子とともに新しい生活を始めようとしている。 その新たなスタートを邪魔できるはずがない。愛するひとを亡くす悲しみから立ち上がることの大変さと強さを、詩春はよく知っていた。
だから、絶対に笑顔で送ろうと心に決めていた。

「ごめんね、私は行けないの。ふたりとも元気でね」
「やだあー!しはるたんもー!!」
「いかないもん、しはるたんいないもんー!」

わあああ、とたちまち泣きわめく葵と茜に、詩春は苦笑いをする。よしよし、と言ってふたりを抱きしめた。 そして、ひとつ小さく深呼吸して自分に言い聞かせる。
これは一生の別れなんかじゃない。なんらかの手段で約束すれば、また会える。
…そうは思うけれど、人の出会いは一期一会だ。このまま何もなく時が過ぎてゆけば、きっと彼らは詩春のことなんて忘れてしまうだろう。 詩春にだって、五つの時の記憶がぼんやりして、時々母の顔が思い出せなくなる一瞬があるくらいなのだ。 二歳の記憶ほど、不確かなものはない。
ただ。確かに温かな一時を過ごしたことだけ憶えていてくれたら、と切に願う。 寂しく泣いてばかりだった、かつての詩春のようではなく、笑顔に溢れた日々であったことを。

「大丈夫、大丈夫。また会えるよ。その時まで葵くんは苦手なピーマン食べられるかな?茜ちゃんはちゃんと葵くんと仲良くできるかな?」
「うー…食べ、る…」
「ひっく…ひっ…仲、良く、できるも…っ」
「うんうん、偉いね、ふたりとも!また会う日までの約束だよ?」
「やく、そく…?」
「うん、約束。ほら、指切りげんまん、嘘ついたら、」
「、はりせんぼん、のーます!」
「ゆびきった!」
「…うん、約束。忘れないでね!」
「やくそくー!」
「しはるたんも、わすれちゃ、めー!」
「あはは、そうだねー!」

指切りの効果はてきめんだった。いつのまにか三人で笑顔になっていた。
きっと詩春にも必要な魔法だったのだ。人の別れは突然で、だからこそいつの時も笑顔でいることの大切さ。 これが最後だったとして、ならば残る顔はしあわせな方がずっといい。
詩春はふたりの顔を微笑みながら見つめる。 時折ほっぺたを優しくつっつけば、ふたりはえへへえ、と嬉しそうに笑った。
寂しくなんてない。これが最後じゃない。もしも嘘に変わったとしても、また会えると言ったことを後悔なんてしない。 葵と茜の笑った顔が一番、一番大好きだから。
もう一度、ぎゅっと強く優しく、ふたりを抱きしめた。

ありがとう、そしてさようなら。
ずっとずっと、大好き――温かい「家族」というものを教えてくれた、大切な子たち。
どんなに時が過ぎ去ったって、一緒に過ごした日々は宝石のように輝くだろう。




ブオォォ…とエンジン音が鳴って、それは次第に遠ざかってゆく。夕日が、去ってゆく車も朱に染めて、まぶしく光った。
松永が、じっと車の先を見つめて動かない詩春の頭をポンポンと撫でた。
中村さん、と呼び掛けられて、詩春はやっと顔を向ける。松永の、優しい微笑みがそこにあって、詩春はようやく自分が泣いていることに気づく。

「す、すいません私…おかしいですよね、泣くなんて」
「?おかしいなんてことないでしょう。寂しいんだから当たり前だよ」
「…松永さんも、泣きたいですか?」
「まあ…すこしは。騒がしいけど可愛い甥っ子姪っ子だからね」

そうですか、と小さく口だけで笑う詩春に、松永はすこしだけ黙った。
沈黙が流れて、松永は再び静かに口を開いた。
松永の柔和な笑みは、詩春の心にある予感を呼び、落ち着かなくさせる。とうとうこの瞬間がきたのだと、両手を固く握ってきちんと向き直る。

「いままで本当にありがとう。…中村さんがいてくれて、本当に助かった」
「…そんな、お礼を言うのは私の方です!こんな高校生を信じて茜ちゃんたちと一緒にいさせてくれて――」

ああ、やばい、あんなにも強く決心したのに―――ふいに涙がにじんで、視界が歪む。

そう、教えてくれたのはあの子たちだけじゃない、松永もだった。 本当の家族のように接してくれて、たくさんの「家族」としての思い出をくれたひと。 詩春が欲しいと思っていたぬくもりや言葉をくれたのは、松永だった。
その松永とも別れること、それがなぜかさっきよりも痛切に寂しくて、胸が張り裂けそうなほどせつない。


(別れたくない)


「……っ、」
「な、中村さん!?」

詩春の突然流れ始めた大粒の涙に、松永が焦る。 わたわたと周辺を見回して他に人影もないことを確認したのか、ほっと息をついた。困ったような顔をして、詩春の顔を覗きこむ。

「あの、中村さん」
「ふ、ひっ、うー…す、すみませ、あの…っそう、だ、合い鍵、返さなきゃ、ですね」
「え…?いや…返さなくていいよ」
「…………は?」

思いがけない一言に、嗚咽がぴたっと止まる。思わず詩春は穴が開くほど松永を見つめた。 今の自分は、さぞかし阿呆面を晒していることだろう、そう思いながら。
松永は目をそらして頭をかく。照れくさいのか、しばらくそうしていた。
意を決したのか、やがて詩春をまっすぐ見た。やけにきっぱりと、真摯な表情で告げる。

「いいよ、返さなくて。これからもいつでも好きな時に帰ってくればいいよ」
「え…!?だ、だけど」
「確かに、ここにはもう俺しかいないけど…でも」

一旦言葉を切って、松永は優しく笑った。


「中村さんは、いつまでもうちの大切な家族だよ」


だから、ここは君の家でもあるんだよ。
詩春は黙って、ただ松永を見つめた。

なぜ、このひとは、ほしい言葉をくれるのだろう。
いつも期待しては裏切られていた温かなそのぬくもりを、彼はたやすく詩春に与えてくれるのだろう。
彼は「遊びにきて」とは言わなかった。「帰ってきたらいい」と言った。
そのこたつのような彼の優しさにいつしか甘えて、そうしてここまできてしまったことに、詩春は少しだけ罪悪感と寂しさを覚えていたはずだった。 いつかは離れるのに、と。
けれど、松永は―――。


そのあたたかさに、涙はとまらなかった。
松永の言葉を何度も心で反芻して、詩春はようやく安心できた。


ああ、道はつながっている。 完全に手を離すことなく、これからもその先の人生に関わらせてくれるのだ、このひとは。
大丈夫、失ったものなど何一つない。
私には帰る家がある。


――松永さんが、いる。






「松永さん」
「ん?」
「ありがとう、ございます…」

詩春の心から嬉しそうな笑顔に、松永は一瞬間をおいて、そして同じように笑った。










マイ・スウィート・ホーム



(これからも、よろしく)











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いきなりシリアスですいませんと謝りたい。
ですが、すごく書きたかったお話です。松永さんならこう言ってくれるんじゃないかなって。
まあ、付き合って結婚すれば双子とは一生繋がっていられるよっていうお話もありですが、あえてこれで。


09.11.08.aoi