剣を握ると決めた日から「女」は捨てたはずだった。




どこからか小鳥のさえずりが聞こえる。
王宮の庭に面した巨大なバルコニーのようなスペースに、ゼンとミツヒデと私、そして白雪がいた。 やわらかな日差しと木漏れ日の中で、皆思い思いに寛いでいる。
春だねえ、と白雪は私にむかって嬉しそうに笑った。 空気が気持ちいいと心から言うその表情は、曇りなく真っ直ぐに輝いて見えた。 まるで、彼女の純粋な心のかけらがそうさせるよう。 その明るさは、常に冷静沈着な女剣士とうたわれる私にはないもので、 ゼンが白雪に見いだすのだろう希望を、そこに見つけてはこっそり微笑むことがしばしばある。

「ゼン、いま心底木々が羨ましいとか思ってるだろう」
「な、いきなりなんだよミツヒデ…思ってねーよ!」
「悪いけどこのポジションはあげられないよ、ゼン」
「いらねーよっつーか違うって言ってるだろうが!!」
「ははは、ゼンは素直じゃないなー」
「…おまえ、今から二時間空気な。いいな」
「え」

ゼン!?とミツヒデは慌てて何度も話しかけるが、すっかり不貞腐れたゼンは知らん顔をしている。 図星だからって拗ねるのはまだまだ子どもの証拠だ。 私と白雪は顔を見合せ、くすっと小さく笑った。
職場に戻る白雪を見送ってる間にも、呆れたことにその攻防は続いていて、 ミツヒデが涙目になってゼンの周りをうろついている。
私は柱にもたれて立ち、彼は犬の生まれ変わりじゃないかと改めて思った。 ゼンに絡む彼の行動を見ての感想はいつもそれに限る。


ミツヒデという男はつかめるようでつかめない奴だというのが正しい。 いつでも笑顔だし、気さくではあるし、好青年といえばそうなのだろう。
ただ彼の打たれ強さは半端なく、どれほど冷たくしても、たとえ無視しまくっても、 それにへこんだとしても、変わらない。 なんでもなかったようにまた人懐っこい笑みとともに寄ってくる、ある意味稀有な人物。 その立ち直りの早さと思いがけない芯の強さに、なんだこいつは、と思わずにはいられない。
ほら、現に一回体育座りでへこんだものの、復活して私のもとへ微笑みながら来た。

「やー参った参った。我らが主人は子どもだな」
「前から思ってたけど、あんたってMなんじゃないの」
「おお、木々からそんなアダルトちっくなセリフを聞くとは思わなかったぞ」
「違うし…」
「ホントにMかどうか今夜試してみるか?なんてな」
「……」
「無視!?」

いや、やはりただの馬鹿だ、ミツヒデは。
軽蔑にも似た気持ちで訂正する心の片隅で、ほんの少しだけ熱く焦がれた一部には気づかないふりをした。
意味深な言葉はスルーすべきだと知っていて、それは私が「女」でもないただの木々であるには必要な術なのだから。

時間が来て、ゼンがスペースを出る。 続いてさっさとついてゆく私の後ろから、木々、待てよ木々ー、と相変わらずへこたれずに呼ぶ声が聞こえる。 すぐに私に追い付いて、また笑いながらなにか言うんだろう。
扉を閉める瞬間、ふわりと萌木の香りとやわらかな空気が吹き抜けた。 そして何度も名前を呼ばれたこと、ピースはそろって、私はミツヒデと出会ってからの歳月を流れるように思い出す。
初めてミツヒデと言葉を交わしたのは、葉も青く香る、空が澄み渡る今のような時のこと。ああ、またこの季節がきた。






剣は昔から得意だった。
女特有の細さと柔らかい身のこなしをもって特訓に励めば男を超えることなど容易かったし、 もとより備わっていた俊敏性の高さがまた私を勝利に導かせていた。
その力のほどは噂になっていたらしい。 入隊して一ヶ月も経ってないというのに、続々と決闘を申し込む輩が絶えなかった。
だけど、私はそれにひとつも喜べなかった。 彼らは凄腕を見込んででもなんでもなく、男のプライドのためにやってくるからだった。 そいつらは決まって同じセリフと視線を私に投げかけた。

女だから。女なんかに。女なのに。と。

面と向かって言われることも、目だけで語っているのがわかる日もあった。 私が女であるただそれだけで、やっかみもなく素直に賞賛してくれる奴はいなく、 珍しい奴だと戸惑う人のがずっと多かった。

ふりかかる嘲笑と支配欲に満ちたギラギラした瞳に、精神的にも疲れはてていた。
浅ましい性差別を持って挑む奴らに決して負けたくないと妙な意地さえ生まれていたあの頃。
そんな時に、ミツヒデは清涼な空気とともに現れたのだった。


「おまえが木々、か?」
「…そうだけど」

誰だ、という意味をこめて険のある目付きで見返すと、彼は嬉しそうに笑った。 途端に太陽が雲から覗かせるようなその笑顔に、私は思いがけず動揺した。
彼がなぜそんなものを私に向けるのか解らなかった。

「いやー良かった、合ってて」

まあ間違えるはずはないんだけど、美しい金髪の娘はここにはひとりしかいないから。
そう言ってニコニコとする彼が、軍内で腕が立つと名高い人物だと私は気づいた。 そして、あまりの衝撃に動けなかった。指先ひとつも、まぶたでさえも。
今まで私に接触してきた人たちとはまったく異なる、底抜けに明るい瞳。 お世辞なのか疑ってしまいそうなほど自然に告げられた誉め言葉。
軟派な雰囲気のかけらもなく、それらすべてを面と向かって放たれたのは初めてだった。
寄ってくる人のほとんどが嫌みっぽくつり上がった歪んだ唇を晒していたというのに、 彼の笑顔はどこまでも澄んで美しい。
少しだけ嬉しくて、少しだけ見惚れた。

「…ありがとう」
「お?木々はクールだな。噂通りだ」
「噂…さっきあんたが言った金髪うんぬんも?」
「ああ、綺麗で強いって、注目の的だぜ!」

やはり噂通りに言っただけか。
なぜかちょっとガッカリしてる自分に気づき、ひっそりと眉を顰めた。

「おれ、ミツヒデ。よろしくな、木々!」
「…よろしく」

どうせあとで試合を申し込んでくるんだろう。
そう思ってぞんざいに返事する。
けれど、彼は何日経っても、私に決闘を言い渡しはしなかった。 なぜか解らないけれど気に入られたらしく、ただひだまりのような温かさを持って私のそばにいた。 木々と何度も呼んでまとわりついてくる犬のような存在が、次第に当たり前になってゆく。


軍内の新人対抗戦が行われたのは、それから一ヶ月は経った頃だった。 順調に勝ち上がるものの、思った通り血気盛んな奴らが動き始めた。

対決したその男は、幾度も私の足を強く踏みつけていた。じくじくと足は痛み、思うように動けない。 それが作為的なものであることは相手の口元に現れた小さな笑みが証明していた――なんて卑しく小賢しいやつ。
だが怒りに身を任せることなく、正々堂々と戦って勝つ。それは私の軍人としてのプライドだ。
けれど相手の笑みが深まった瞬間、ついに腕を掴まれる。その勢いのまま押し倒される格好になって初めて頭に血が上った。
なぜそこまで男が優勢であることにこだわるんだろう、なんて馬鹿馬鹿しい! 私は弱い男だと見下した覚えはなかった。
…男を倒せば倒すほど、強さを見せれば見せるほど、奴らは皆、傷つく。 女に負けた、ただその一点の屈辱にすがり付いて、どうしても私を泣かせたくなるように。

「………っ」

本当に、女なんてくそくらえだ…何度思っただろう、男に生まれていたら、こんな思いなどせずにすんだのに、と。 同じ歩幅で、同じように歩いて時には走っていきたい。なぜそんなことができないんだろう。
でも決して泣かない。自分はおろか、奴らに同情などしない。だって私は強くなりたい――

「木々しっかりしろ!負けるな!」

ハッとした。
場内に渡り響いたその力強い声に、目が覚める。
即座に脚に力をこめて男の股間を蹴りつけ、男の身体を撥ね退ける――勝負はその一瞬で決まった。
呻く男の剣を払い、風が吹く。どこから葉がひとひら舞い、静寂は驚く声と歓声へと変わった。




「…ありがとう、ミツヒデ。あんたでしょ、声かけたの」
「ああ。勝って良かった」
「…いいの。私なんか応援して」

ミツヒデは心底不思議そうな顔をした。

「なんでだ?木々は俺の最高の相方だから応援するのは当たり前だろ」
「…それ、いつ決まったの」
「そんなん俺らが出会った時からだよ」

な!と屈託なく笑みを見せる彼に、私は目を見開いて絶句する。
後にも先にもこれほど驚いたのはこの時だけだ。まるで口説いているかのようなセリフであることに気づいていないのが凄い。 少しは悩め馬鹿、と言いたくなる。
しかし、彼はすぐに真面目な顔になった。

「…木々。女であることを間違いに思わなくていいんだからな?」
「―――」

今度こそ言葉が出なかった。…ミツヒデは私の思いに気づいていたのか。
鋭い観察力があるのは意外だった。彼なんかに見破られたことが、少し悔しい。
…もしかしたら。彼と対等でいたい思いがまた、女であることの劣等感に影響していたのかもしれない。
固まったままの私に、ミツヒデは優しく微笑んでいる。

「木々は木々らしく強くなっていけばいいさ。そのことを誰も咎めはしない。男とか女とか剣の前には関係ないことを優勝で証明すればいいんじゃないか」

あの、初めて出会った時と同じ笑顔で、けれどそれよりもずっと優しく深い眼差しを私に注いでいた。
心臓が痛い、と初めて思う。息ができない、とさえも。
なんとか口にできたのは、優勝とか簡単そうに言わないでよ、というどこまでも可愛くないセリフ。 けれど、わかってるとでも言うように彼の手が私の頭をそっと撫でた。

――その瞬間、わかった。
私の中の「女」は、彼によっていとも簡単に呼び覚まさせられ、いつでも蘇らせられる。どれほど捨て去ろうとしても。





「木々」
「…なに」
「やっと返事したな。アップルパイもらったんだ。食べないか?」
「またジャンの?」
「おお、ジャンの作る菓子はうまいからな。ゼンが食べたがってるとうそついてみた」
「呆れた…」

それでもパイを一切れもらう。シャリ、と気持ちよい音がして、すぐに林檎の甘酸っぱさが口内に広がった。

「ん!うまいな!」
「うん。さすがだね」
「ははっ木々、パイがついてる」

ふわりと骨ばった男らしい指が私の口端をすべり、掬いとったパイのかけらを、彼は自然にペロリと舐めた。 そして彼特有の眩しいほどの輝く笑顔が放たれる。

「うん、うまいなあ」
「……!」

こいつ、本当にどうにかしてほしい。…舌で舐められないだけマシだけど。
ピキッと青筋がひとつできたことを自分でも実感する。


――あのあと、私は優勝を手にし、皆何も言わなくなった。それどころか戦場の女神と崇拝されるようになったのが若干気持ちが悪いくらいだった。 それをミツヒデにこぼすと、男は単純だから認めてしまえばこんなもんさ、と笑うばかりだった。

ミツヒデは解っていてくれる。私の内にあった葛藤と、悔し涙を。外に出さないまま、彼は汲んでくれた。
もう背伸びする必要もなかった。剣を握るにふさわしい「男」になろうとするのは無駄なことだと悟ったから。 どう足掻いても私は私だと認めてしまえば、女らしい体型でも髪を伸ばしても女扱いされても、ちっとも嫌ではなくなった。 あからさまな発言をする奴には問答無用で斬り込んでいったので、皆紳士に接するようになったし、そんな風に良い方向に変えていけたのは、 ミツヒデのおかげだと思う。
彼はきっと、愛の力だよ愛の、とほざくから決してお礼は言わないけれど。

ただ、ミツヒデは自分がもたらした一つの変化には全く気づいていないらしく、私だけジョーカーを持たされた気分だ。 変わらず笑っていられるその能天気さが、いとしくも憎い。

対等でいたかった。せめて、彼とだけは。
「女」を見せて「女」にしか見られなくなるなどごめんだった―― 最高の相方という地位も離すのが惜しいなんて、なんて私は欲張りなんだろう。
ミツヒデだけが、私を「女」に変えられるなんてこと、まだ知られたくはない。彼にも、皆にも。
だから彼に対してだけは、殊更に無機質な瞳をもって見つめ、感情を押し隠し「女」であることを表に出しはしない。 彼を貶せば貶すほど自分の中の眠る「女」が薄れていくような気がして、冷たく当たることが習慣となる。
元々にこやかではない性分だけれど、その性格に拍車をかけたのはまぎれもなくミツヒデだ。
きっとこの思惑が彼に伝わるのは、どうしようもなく想いが溢れ出た時なんだろう。 そんな未来は、まだこなくていいと願う。
手に持っていた残りのパイを口に押し込めて、くるりと背中を向けた。

「おーいどこに行くんだ、木々」
「ついてくるな、トイレだ」
「はいはい、いってらっしゃい」

木々、とミツヒデは柔らかく笑った。
どくん、と胸が鳴った。
ぎり、と唇を噛み締めれば、口はパイの味で甘ったるい。心もまるで虫歯のようにじくじく痛む。病原菌は、あいつ。
それでも、彼が私を呼ぶ声はアップルパイよりどんな菓子よりも遥かに甘く感じられた。泣きそうになるほどに。

『木々』

――わかってる。
どんなに毛嫌いしたってポーカーフェイスを装ったって、もう彼を知らなかった頃の自分には戻れない。





あの時もらった言葉は、命を懸けても譲れない宝物で。
彼の太陽のような笑顔が、いつまでも私の心の中で輝いている。きっと、一生消えない。









シンギング・ア・バード



(だけど私はまだ)(恋のさえずりになど耳を貸せないでいる)







09.12.27.aoi

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男女の差に苦しむ木々と、犬なようで包容力がある大人なミツヒデ。
こんな出会いのエピソードがあって、今のような気のおけない仲になってたらいいなあ。