「じゃあな、梨果」


どうしてそんなに笑って言えるの。

そう返そうかと思ったけれどなんとか踏みとどまった。 次に搾りだすようにして口にしたのは、さよならの言葉。
できることなら目の前の彼に伝える言葉はすべて明るく幸せなものでありたかった、ずっとずっと一緒にいたかった。


――梨果、頼むからそんな顔、するなよ

・・・・心配だよ、あっちに行っても梨果が笑って過ごせるのか


本当に?本当にそう思ってくれる?
・・私、知ってるんだよ。 旅立つことが決まったあと、私じゃない女の子と二人でいるようになったこと。
あなたは優しいひと。でも見せかけの優しさを時にかざす、ずるいひとだってことも知ってるのよ。

発車を告げるアナウンスが流れて、ひとすじの強い風が吹いた。
なびく髪を押さえて静かに乗車口に乗り、ゆっくり彼に向き直る。 人を裏切るとは到底思えないほど、純真無垢な輝きをたたえた大きな瞳と出会った。
初めて出会った時もそんな目をしていた。 よろしく、と手とともに差し出された柔らかい笑顔が素敵だと、今思えばあの瞬間、恋に落ちていた。
あの時からずっと変わらないその笑みを口に浮かべているのを見た瞬間、どうしようもないほどやりきれない気持ちが胸にこみあげてくる。

こんなにも表情、笑い方、しぐさは何一つあの頃から変わっていないのに。
大事なところだけ、変わってしまった。それはいったいいつから?

息をするのも苦しくて、目頭が熱くなってくるのを止められない。 悟られないよう、黙って小さくうつむいた。
少しでも涙を見せてくれたら良かった。そうしたらその労りの言葉を信じることができたかもしれないのに。 それは別れを感じさせないようにと優しさから出た笑顔なのか、それとも偽りの笑顔なのか、もうあなたが判らない。


「・・朗、」
「ん?」
「・・もうあなたと会うことはないわね」


朗の一瞬でさっと歪められた顔に、心はかすかに痛む。 けれど、それ以上の痛みを彼に与えたことに満足感を覚えている自分に驚いた。
結局、自分も狡猾で残酷なのだ。 だけどその表情の変わりように安心したのも事実だった。 良かった、少なくとも私は愛されてなかったわけじゃないんだ、と。
発車のベルが鳴り響いている。


「もう、終わり・・なのか?」


信じられない、という目をする男にふ、と小さく息をもらす。
何言ってるの、先に裏切ったのはそっちじゃない。うそつきなあなた。本当に優しくてずるいひと。 離れる淋しさに耐えきれないほど弱くて、この先傷つくのが怖くて、私じゃない誰かにすり寄ることを選んだくせに。
そんな不器用なところが一番好きで、一番憎かった。


「終わり、だよ」


その言葉とともにフシュウ・・ガコン、と無情な音を立てて扉は閉まった。
少しだけ微笑んで隔てた向こうの彼を見やる。 ばいばい、と口を動かせば朗は縋るような目つきで何かをいいかけ、やめた。

少しずつ、列車は動きだす。 ゆっくりと彼との距離を離していく列車は、あんなにも寄り添っていた二人の心さえ離していく。 スローモーションで扉の窓から消えていく彼の最後の顔は脳裏に鮮明に焼き付いて、生涯忘れることはないだろう。


ガタン、ガタン。


・・見て見ぬふりすれば良かった? 何も知らないふりして遠く離れてもそのまま関係を続けてれば良かった?
でも、たぶんどっちにしたって同じだった。
離れれば愛は終わると思っていたわけじゃない。ただ、彼と彼の愛を信じることができなければ終わりだと思った。 裏切りを一度知ってしまえば、二度と彼の愛を信じることは出来なかった。 自分に嘘はつけなかった。
ポタン、と涙が一粒こぼれ落ちる。
窓から見える景色は、いつのまにか空と海になっていた。 清々しいほど青い空がまぶしくて、目を細める。その底抜けの明るさにしばし見とれた。



・・ガタン、ガタン・・。



目を下に向けると、海の地平線が見える。 その果てしない広がる空間に、遥か彼方むこうどこまでも続くその大海原に、いつまでも一緒にいようと二人夢見ていた日々を重ねた。


”梨果!”
”――なに?”
”俺たちずーっとこうしてような!”
”・・、うん!”
”はは・・・・”



あの日々はもうこんなにも遠い。 笑いあったことさえ奇跡のような日々だった。
二人違う未来へと歩きはじめ、もう後ろを振りかえることはできない。


ばいばい、朗――


もう二度と戻らない。
恋しかった、愛しかった。











涙 ひ と ひ ら



(このしずくもいつかは 虹に変わりますように)







08.3.29.aoi

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梨果(りか)と朗(ろう)。
旅立つ彼女とその彼の物語。