彼はいつかこの地を去っていく。
その流れ者の性は、否応なしに私たちの運命を定める。でも、それでも。



ミランダ、と呼ぶ赤毛の青年の声はひどく優しく、大人びている。
いつだかリナリーにそう言ったら、それはミランダ相手だからだと微笑まれた。
普段のラビの声は明るくてやんちゃなイメージでしょ。優しいのも大人びているのも、ミランダが大事で大好きだからよ。
そう、言われた。リナリーは、ラビも可愛いところがあるのねと笑うから訳が解らなかったけれど。 ただ一つ前の彼女の言葉に頬を染めていた。

「ミランダ」

…ああ、ほら。彼は耳元に囁く、低く穏やかな熱を持った声を。 そのあまりの気持ち良さに、ミランダはいつしか瞳を閉じて、眠りに誘われそうになる。 それがいつも未遂に終わるのは、彼が唇をはじめ身体の至るところに悪戯しはじめるからだった。

「ミランダ」

触れられるたび正直な身体はびくびく震えるけれど、それでも逃げない。ラビにすがりついて離れない。
――彼がどこかへ行ってしまうのを何よりも恐れているから。

「………っ、…」

ぽた、と涙がラビの手の上に落ちて、ラビは動きを止めた。少し身体を離して、ミランダを覗きこんだ。 手はミランダの頬をすべり、哀しみの象徴を拭い去る。
そのまますべてを、こんなにも悲しませるあらゆる要素も拭ってくれたらいいのに――彼がブックマンでなかったら。 彼も私もイノセンスなど持っていなかったなら。
でも、それは考えても仕方のないことだった。 捨て去ってしまいたい全てがなければ二人は出会うことはなかった。こんな風に想いを伝えあう喜びを知ることもなかった。 だから哀しいのだ。
静かに泣き続けるミランダに、ラビが困ったように首を傾げる。

「ミランダ、どうしたんさ?…どっか痛い?」

無言で首を振る。
ただ、離れていってしまってほしくないだけ。 あなたは知らないでしょう…一人になることを思っては泣いてしまうのよ、誰もいない部屋でひっそりと。

「ラビ、くん」
「ん?」

どこにもいかないで。
言えない、たった一言を呑み込んで、ただそっとラビの首に両手をまわして抱きついた。
それでも勘の良いラビは察して、顔にさっと動揺の色が表れる。初めて触れるかのように、 ぎこちなくミランダを抱きしめた。不安をかき消すように、ミランダは彼にきつく強く抱きつく。

解ってしまう、ミランダには。
時折、遠い目をするラビが怖かった。確かに傍にいるのに、心をどこか遠くに置き去りにしてきたような時もあった。
ラビは欲しがらない。ミランダも謙虚な方ではあったけれど、ラビのそれはもっと悪いタチだと最近気がついた。
思い出をつくろうとはしない。深く情を移すようなこともしない。 本来ならこうして愛を囁き合うことすらタブーで。 彼は、いついなくなってもいいように、傷つかずにすむように、自らの痕を残すまいとして生きているのだと。
リナリーやアレンは「ずっと一緒にいよう」と言うのに。 もちろんいつ死ぬかもわからない身であることを十分知っていて、あえてリナリーたちはそう言うのだ。 儚い希望だと解っていながらも、それでも必死にすがりつきたい願い。
それに対してラビは曖昧に頷いて、かつにっこりと笑顔でそうさね、と100%の嘘を言い放つ。 そうしている間も瞳ははるか遠くの向こうのラビ。
だからいつか「それ」は来るのだと知ってしまった。だから今も泣かずにはいられない。
ただ、しあわせに笑ってラビのことを考えていたいだけなのに。

「――どこにもいかないさ」

ラビがぽつりと呟く。
ミランダを置いて行くなんて出来るわけないさ。

「…うそつき、」
「うそじゃないって。……信じてもらえないかもしれないけど、」

でもあなた、すごく困った顔をしているじゃない。きっと私とあなた、同じこと考えて生きている。
ミランダは顔を上げてラビを見る。さいごの涙がぽろりとこぼれ落ちた。
――こんなにも好きなのにね。…あなたはいつかその名前を捨てて去っていくのでしょう。
ミランダは何も言わずに、哀しげに微笑んで、ラビの額と額を合わせて見つめあった。
来るべき別れに戸惑いながらも、それでもその時が来るまで、できることはただひとつだけ。

…ラビくん、好きよ、

ラビは滅多に出ないその言葉に目を見開き、すこし耳が赤くなる。
やがて俺も好きさ、と返ってきた。


だから、どこにも。どこにもいかないさ。


複雑な影を宿したまま、そう言ったラビの笑みはやはり大人びていて、とてもとても優しい瞳をしていた。










世 界 一 や さ し い ア イ ロ ニ ー



(I'm just a woman....Fall in love)








09.08.26.aoi


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『ただ、あなたを好きになっただけなのにね』



大人のミランダに合うよう背伸びしているラビ。
どうしようもなく寂しい未来を予想しては泣いて愛を伝えるしかないミランダ。 それでも彼女は、ラビが吐く優しい嘘に騙されるふりをし続ける。
※アイロニー=皮肉。