いつもの商店街。だけど少しだけ違う、往来の中の情景。ざわざわとした空気がひとつに集まっている。


「・・・ハル兄」
「ん?・・・あー、飛鳥とキュー?」
「またやってるよ・・・」
「ははっ。すっかりここの名物のひとつになってるよな」
「だよね」


ぶわあ、と夏には珍しく強く、湿った風が吹き渡る。後ろでプリントがバサバサ、と落ちる音がした。
下では愛の言葉と拒絶の言葉が響いている。


「・・・・・・・」


やっぱり言えるんじゃない。 数週間前、愛の言葉ってなんだと散々騒ぎ、私に泣きついてきたのはどこのどいつだ。
舌打ちしたい気持ちでそう思った。
思うに彼は知らないのではなく、「飛鳥」を前にしなければ出てこないのだ。だから一番星でうんうん唸っても無駄で。
なんとなくだけどそうなんじゃないかと思い、私に頼っても仕方ないと教えることを拒否したのは結果的には正しかったってわけだ。

はあ、とひとつため息をつく。
こんなことまで先を読めてしまう自分が嫌だった。


ふいに、私より大きな手がふんわりと包みこんで私の頭を撫ぜる。 横を見ると、ハル兄は優しい「兄」の顔をして微笑んでいた。 私が黙ってハル兄を見つめている間も、ずっとあたたかく撫ででいてくれる。

・・・見透かされているのかもしれない。
そう思ったけれど決して嫌ではなかった。 むしろ、家族でも幼なじみでもないある意味中立の立場にいる彼になら、この秘めた思いを知られてもいいと思えた。
こんな気持ちになるなんて、私はまだ暑さにやられたまんまなのかもしれない。 それともこれは夏の魔法?心をさらけだせと太陽が叫んでいるのだろうか。口が勝手に動きだす、思いはあふれだす。


「・・・・ハル兄」
「ん?」
「本当はね、ひとつだけ思ったよ、キューにぴったりな言葉」


でも言わなかった。愛を語るには全然遠い、ただの格言だからだ。でも、これ以上に当てはまるものはないと心から思えた。 哀しいくらいに。それは自分で自分の恋の可能性を消したようなものだった―――最初からないに等しかったけれど。


Love is blind.


アス姉しか見えないあんたにぴったりだよ、って本当はつきつけてやりたかった。
だけどそんなことをすれば自分の傷を深くしていくだけ。 ただ顔を赤くするキューを目にして絶望を感じるだけだと思った、だから言わなかった。

ハル兄がふ、と笑みをこぼす。


「キューが好き、なんでしょ」
「・・・・・・」
「イバちゃんはイバラの道を歩いているねえ」
「・・何言ってるの。お互い様でしょ?」


ハル兄の人を食ったような笑みがぴた、と停止して、おや、といった表情に変わる。 だけどその顔にすら余裕が見られて、たった二つ歳が違うだけでこんなものなのかといささか腹が立つ。 ほら、ほぼ一瞬でまたいつもの笑顔に戻った。


「あらら。そー思う?」
「思う」
「はは。・・内緒な?」
「もちろん。ハル兄もね」
「モチロンですとも」


おどけた表情のハル兄に小さく笑った。

私たちはなんて不器用で不毛な恋をしているんだろうと思う。
想いに蓋をして、誰にもわからないように見えないように隠している。 そう、たとえば曇りガラスではっきりと心の景色が見えないように。
人はみなそういうものだと思っていたけれど、この行為がこんなにも悲しいものだとは思わなかった。 閉じた箱の中身をぶちまけることができたら、どんなに楽なんだろう。 誰も困ることなく関係も変わることもないと、なにも悪い影響なんてないと誰かが保障してくれたならいいのに。

窓の下には、キューのうなだれた姿だけがそこにある。
彼が空でも見上げれば、私と目が合うだろう。 でも可哀相なくらい落ちこんだ彼にそんな余裕はなくて、いつまでも去ってゆく彼女の後ろ姿だけを見ていた。

いつまでもいつまでも。彼にはアス姉しか見えない。
あいつはいまアス姉以外を曇りガラスで覆っているから。



そろそろどうかな?と私の頬に手を当てたハル兄は、やがて、うん大丈夫っぽいなと笑った。 そしてまたひとつ、ポンと私の頭に手を置く。ハル兄の優しさがいつも以上に嬉しくて、心が温かかった。
ありがとうの意味を強くこめて、私はハル兄に微笑んだ。
八月の暑い暑い夏の日、窓際に並んでハル兄と眺めたことは忘れないだろう。 現実も秘密も空も人もなにもかも二人で見つめたことを、きっと。


窓の向こうの青い青い空には、大きな綿雲がたゆたうように流れてゆく。
その雲のどこかに母がいて、神様の服でも洗っていないだろうか?と、こっそり、そんなことを思った。 昔よく目にした、お陽さまの中の笑顔の母が目にそこに見えた気がした。

胸にこみあげてくる懐かしさとハル兄の大きな優しさに涙がこぼれそうで、きつく目を閉じた。







どこかに天国へのホットラインがあればいいのに。
いつでもあの懐かしい声が聴けたなら良かった。







ねえお母さん、教えて。

この気持ちと一緒に、私はどこへいけばいい?












曇 り ガ ラ ス の 恋



(彼のその瞳に 私は映っていますか)





* 影

08.3.10.aoi