変わりたかったわけじゃない。 けれど、いつのまにかそれは流れていた。 容赦なく時は流れていくのと同じような自然さで。
変わらざるを得ない私たちは、ただ黙ってそれを聴くことしかできない。
夏は唐突に終わりを告げた。冷えた風が時折吹く。
ある日、薄暗い青の闇のような空の夕方に、彼は何の音沙汰もなく私の学校に迎えにきた。
私と彼を乗せた自転車は、ふいにやってきた大雨に濡れた。 そういえば天気予報で、今夜は台風が来ると言っていたと思い出す。
彼は鍵を忘れて、親も家を空けているというから我が家へご招待、幼い弟たちが喜んだことは言うまでもない。
嵐の、夜だ。どこもかしこも。・・・・あの日から、ずっと。
ザアァァという雨音に紛れて、時々激しくガタガタと窓が鳴る。 風で家が小さく揺れた。
食事もお風呂もとうに終わり、他の家族は部屋に引っ込んで寝る支度をしている。
私たちは居間でのんびりしている。彼はうるさくない程度の音量で明るく騒いでいるテレビを眺め、私は家計簿をつけていた。
彼がぼんやりテレビを見ながら呟いた。
「雨、ひどいな」
「うん」
「すげー濡れたし」
「ね」
「でもイバちゃんのご飯が食えたから結果オーライだな!」
「そう?」
「おう。美味かったぜ」
満面の笑顔を浮かべる、どこまでも無邪気な幼なじみに、私はただ小さく、ふふ、と笑った。
力のないその笑みに、彼は目敏く気がつく。
「イバちゃんなんか元気ねえな。疲れたのか?」
「・・うん、そうかも」
「かもって。イバちゃんは放っとくと無理しすぎるんだから。ほどほどにしろよ?なんかあったら手伝うしさ」
「うん、ありがと」
そう言ってまた笑えば、彼はなんとなく納得する。 その次の瞬間には、目線はもうテレビに向いてタレントの発言に笑っていた。
ごめんね、と心の中で謝った。今日の私はどうもポーカーフェイスではいられないらしい。
楽しかったよ、本当は。一緒にハンバーグ作ったり、弟たちとお風呂に入る彼を見送ったりして。
だけど、彼に会った時から頭を占めるのはひとつの疑問で、いつ切りだそうかと迷っていた。いまも、ずっと考えているからうわの空。
カタ、カタカタ。小さく窓が揺れる音が聞こえるほどに静かな部屋。
いまなら、言えるだろうか。聞けるだろうか――彼と、ふと目が合った。
「・・ねえ、キュー」
「んー?なに?」
「今日、さ。・・・・どうして迎えにきたの?」
とたんにテレビからこっちに目を向けた。彼の瞳は揺れていた。落ち着かないといった彼の表情に、私は小さく眉を潜める。 そんなに変なことを聞いたつもりはないのに、彼は黙りこんでしまう。 いつまでもバツの悪そうな表情で、遠慮がちに口を開くまでしばらくかかった。 彼のことだから、明るく「ただの気まぐれ」と言ってくるものだと思っていたのに。
そしてようやく出た答えは、思いもよらないものだった。
「・・・・イバちゃんが、一人で・・心細いかと思ったから」
「・・え。な、んで・・?」
逡巡した後、やっぱり彼は呟くように目をそらしながら答えた。
空が、あの時見た色と似ていただろ、と。
私はごくりと息を呑んだ。
あの時っていつ、なんて聞かなくてもわかる。彼がこんなことをするようになったのはあの、お化け屋敷の一件以来なのだから。
空が似ていた?そんなの知らない。見ていない。あぁでもそれは彼がいたからなのだ。彼だけ見ていたし、空を見たとしてもちっとも寂しくなんてなかったのだ。 あの時を思い出して苦しくなるはずはなかった。
思い描いてくれたのかもしれない。空に潰れそうな私を。だから、ただそれだけのために彼は自転車を走らせてきてくれたのだろう。
「―――」
・・なんて残酷なんだろう。これからも私にそう構うことなどできないなら、そんなもの、いらないのに。嬉しいけれど。でも、いらない。
やさしさがそっとしのびこんでくるようになった。あの日から、瞳はいつもよりずっとやわらかい。 本当にさりげなくて判りにくいけれど、向けられた私にはすぐに気づくことができる。私だけしか知らない。
”イバちゃん、これやるよ”
”イバちゃん、おれも行く”
”なあイバちゃん――”・・・・。
時折、ひとりになっては絶えず思い浮かべる。彼の言動にひそむ、やさしさのわけを考えるようになった。
なんでと聞いても、明確な答えが返ってくるわけない。きっと彼は、あの日の私に同情しているだけなのだ。 あの夏の日、帰ってきた私を商店街のみんなが心配してくれたように。それとも、なんらかの負い目を感じてるのだろうか。
どちらにしろ、甘い期待をするだけ無駄だとわかっている。その理由に恋愛が入る日など来ることはない。
ただ、ただ。
畏怖を覚える。勘違いしてしまいそうになる、そばにいてもやさしくされても何をしていても。
そんな時にふと思う。どこかに行ってしまいたい、と。
なのに彼は、容赦なく私の心を揺さぶるのをやめてはくれない。平気でポンポンと目の前に現れ、やさしさで心をかき乱していく。 何度、もうかまうなと言いそうになっただろう。
けれど、あの邪気のない真っ直ぐな笑顔が、いつでも私の言葉を封じ込める。離れることを許しはせずに、やんわりと引き留めるのだった。
彼は一体どういうつもりなのか。期待も勘違いも芽生えさせるこのずるい男をどうすればいいのか。
たったひとつの方法しか思い付かない。それは、いままでの何もかもを覆すのと同じことだった。でも、それでも。
「・・ありがとう」
小さく微笑むと、彼の不安そうな顔がパッと明るくなった。
けれど、次の瞬間に凍りつく。
「でも、いいよ。そんなこと、しなくても」
「・・・・・え?」
「アス姉に使ってあげなよ、そういうやさしさは」
私は大丈夫だから。だからもう構わなくたっていいんだよ。
あくまでも口調はやさしく、目の前の彼に語りかける。
思えば初めてだった。幼なじみがかけてくれたやさしさを突っぱねたのは。
でも今そうしなければ、きっとこれからも苦しい。 だってそうでしょう。私たちはただの幼なじみなのだ。私だけにそうやって目をかける理由なんてない。
そうしてぎこちなく俯いて、いつのまにかペンを強く握っている私に降りかかってきたものは、泣き言でも困った顔でもなかった。
その時、気がついた。私は、前と同じように自分に接する、いつもの彼が見たかったのだと。彼にいつものように焦ったり困ったりおろおろしてほしかったのだ。
「なんでだよ」
「――・・え、?」
「――なんで優しくしちゃだめなんだよ!」
ガタ、ガタガタガタッ!!
―――その瞬間、急に激しく震える嵐の咆哮に、家は大きく揺れた。私の心も激しく揺れる。息をつめて、彼を見ていた。
低い、唸るような声。苦しそうに歪められた顔の中で、睨むように瞳が光っている。
彼は、怒って、いた。
ゴ―――・・・・
嵐が鳴く音が聞こえる。
しん、と静まった小さな部屋に、ふたり。瞳はお互いを見ていた。動くことも、そらすこともできずにいた。
ゆらゆらと揺れる明かりが、私たちをそっと照らしている。
旅 立 ち へ の 夜 想 曲
(気持ちもなにもかも変わっていくのは)
(私だけだと思っていた)
(気持ちもなにもかも変わっていくのは)
(私だけだと思っていた)
* 影
08.6.26.aoi