「キュー」

店の前で暖簾を下ろしていると、呼ばれた。振り返ると、ミケとクロが神妙な顔をして立っている。
瞬時に、ふたりがわざわざ来る理由を察したけれど、キューはおどけるようにして言った。

「おう久しぶり、どーしたんだよ真剣な顔しちゃってさあ、」
「――最近、ふたりとも一番星に来ないよね」

遮るようにして告げられた一言に、キューの表情は止まった。ミケの大きな瞳にじっと見つめられて、仕方なく息を吐く。

「なんかあったの?」
「・・・イバちゃんに聞いたら」
「家にいねーんだよ。・・桃子が心配してた」


――”・・・なんかね、最近の杏ちゃん変なの。笑ってるけどたまに沈んでいるの。無理して家事も手伝いも頑張ってて”


「・・・・・」

キューはふたりから顔を逸らした。作業着のポケットに手を入れて、黙って空を見やる。
答えろと、複数の無言の視線が突き刺さった。でも、何も言いたくはなかった。 そして、すべてを洗いざらい話すほど、キューは子どもではない。

「・・・なんでもねえよ」

皮肉なほど青々と晴れ渡った空に、乾いた風に吹かれて葉がひらりと舞った。






引き戸を静かに開けて中に入る。
片付けを始めようと思うけれど――鳴りやまない。頭の中で、繰り返し繰り返し、あの夜の残像が流れている。

ふざけないでよ、とあの時彼女はそう言った。 いつもの呆れた風でも笑ってでもなく、心から怒って。 珍しく声を張り上げて、眉をきつく寄せて、瞳に涙を浮かべて、声を震わせて・・・。



それが何度も、リフレインする。









ごう、と外で激しく風が唸った。


「―――なによ、それ」
「え?」
「なによ・・・なんなの、キューは! ほんとのことでしょ、 キューが好きなのも優しくしたいのもいつまでもついていきたいのも側にいたいのも全部全部、アス姉のくせに!!」

突然の怒りの反撃に思わず俺の身体は跳ねる。思いもよらない反応だった。
ついさっき、納得がいかなくて嫌に苛々する感情は膨らみ爆発した時、彼女は怯えた顔つきで動揺していたはずだ。 それが今や一転して、彼女が纏う空気は圧倒的な気迫に満ちていた。その急な落差に今度は俺が戸惑い、たじろぐ。
イバちゃんは、目一杯に開いた瞳で強く、俺に訴えているかのようだった。 それでも、怒っているようでいて頬を紅潮させ切なさに顔を歪めているような表情 ――初めて見るその顔に思考は一瞬停止する。
・・・どくん、と、どこかで小さく鳴った。
それでも彼女の怒りに満ちた声は止まらない。

「そこのどこにも私に優しくする余地なんてないじゃない、必要ないってくらいにアス姉を好きなのはあんたでしょ!?」
「・・な・・・っだ、だから!わっかんねーんだよ、なんで飛鳥さんが好きだとイバちゃんに優しくしちゃダメなんだよ!」
「意識的に”優しくする”のは好きな人にすることじゃない!」
「・・・・、は・・・?」


ぽたん。ふいに、涙がこぼれた。彼女の瞳の真下、テーブルの上に落ちて、広がって。


「変だよ、キュー・・あの日から・・・。前よりたくさん私に気を使ったり一緒に帰ろうって言ったりして。 ・・・そんなに私が、可哀想だった?――珍しかったんでしょ?私がショックを受けているのが」
「イバちゃんなに言って、」
「だから同情してるんでしょう。でもそんなのもう大丈夫、私は大丈夫なの。だから私にもう構わないでいいって言っているの」

なにか言おうとする俺をさえぎり彼女は一息に言う――いい?「優しくする」のは「好き」の証、 友達でただの幼なじみの自分にはそうする理由などないの、解った?そう、だから、


「そんなのは理由になってな、」
「お願いだから勘違いさせないで!」

・・・アス姉を好きだと言っているキューが、特別に私に接するのはおかしいじゃない、それが解らないの? 同情ならいらない、そんな優しさはいらない。 中途半端に優しさをかけるくらいならこっちを見なくていい。ずっとそばにいることができないのならここにいなくていい。 苦しいの、一縷の望みもないのなら優しくしないで、期待してしまうから。 ねえなぜわからないの、ずるいよキューはずるい鈍感すぎるのもずるい、ああこうして私に理由を説明させることすらフェアじゃない!
――それは心を切り裂くような、悲痛な叫び。俺の心に確かに鋭く切り込んでいった、

ガタン!―――ッガタガタ、ガタン、ガタッ、

ゴォ―――・・・・、――・・・・・。



・・・――――フェアじゃ、ない?



途端にざわりと背筋から身体中を逆撫でするような感覚に襲われる。 どくんどくんと嫌に大きく響きはじめる心臓の音、感じているだけで冷たい汗が流れ始めた。
まさかそんなことがあるわけない―――


「キュー」
「・・・・な、に?」
「・・・私は、男でも女でもない、ただの幼なじみなんでしょう」
「・・え・・・?」


何言ってんだよ、変なイバちゃん。どこからどう見ても、イバちゃんは女の子だろ、

「――――」

明るく言おうとして、止まった。
その時、イバちゃんの、あまり見ることのない長い髪がはらり、と肩から滑り落ちた。 いつもお団子にしている、意外にも艶やかで綺麗な髪。

「・・・・・っ」

いまだ胸に響く、彼女の震える声。
今、まっすぐに俺を見ている彼女は、少しだけ潤んだ瞳でじっと静かに、瞳は真摯な光を宿して、

きらりと光った。



ど く ん






気付きたくなかった。気付いたら最後、もう戻れないと直感がそう告げていた。
いつからか感じていた胸の小さな違和感にも、ちゃんと説明をつけなくてはならない日が来る。 何故だと首を傾げてはいても、解る日が来てほしいとは思っていなかった。
泣きそうになって顔を歪めた。
一度悟ってしまえば、もう彼女は今までの「イバちゃん」ではなかった。 いま、目の前にいるのは、「見たことのないひと」。
くしゃりと力なく頭を掴む。夢から覚めたような気持ちだった。
ああ、そういう、ことだったのか。イバちゃんが時々しらないひとに見えたのは。 そういうことなのだ、彼女が頑なに俺を拒み始めたのも、すべてすべて、こういう、こと。
そう、イバちゃんは女の子じゃない、



「お ん な」 だ。



・・・彼女は恋する「女」、そのものだった。


「ねえ、キュー。わたしがあんたを好きって言ったら――どうする?」




再び、イバちゃんの瞳の奥に潜んでいた深い藍色の世界が、とけて流れだした。 ひとつ落ちて、また、ひとつふたつ、その透明なしずくは次々と流れ落ちて。

でも、それでも。
俺に彼女の涙を拭う資格はあるのだろうか。



ガタッ、ガタン、ガタ、ガタン・・・


揺れる、揺れる、揺れる。


心も揺れた。



















ザーーー・・・。


テーブルの上を拭いていたキューは、いつのまにか雨が降っていることに気がついた。 それはあの夜の雨とは似ても似つかない。
誰もいない店内で、拭く手を止めて窓をじっと見つめる。

雨は、きっと何もかも覆い隠すだろう、罪も空も明日も愛も、夢も。霧のように瞳を覆う。
はて、今まで自らの瞳を覆い曇らせていたのは何だったか、それはあの長い髪の愛しいあの人ではなかったか。 それでいいと思ってた。それがいいと、いつまでも夢を見るように。
けれど、少しだけ外の世界を映し始めた瞳は、杏子がみえないことにひどく歯痒く疼く。
もがいても手を伸ばしても、雨に隠れて彼女は行ってしまった。自分の手を払い除けて、背を向けて。それがあの夜の結末だった。 理解しあえないと、見切ったのだろうか。


キューはそっと、目を閉じた。
あの日の嵐が連れてきた雨は、今日も止まない。現実はどんなに晴れていても。心の中ではいつもあの夜の雨だった。
けれど、きっと、彼女の中では、もっとずっと前から降りつづけていたに違いない。 静かに、音もなく。あの濡れた瞳が、そう云っていた。


なぜ、こんなことに。なぜ、雨は止まない。


――なぜ、だと?
そんなの、どれだけ問いかけても、答えはひとつしかないだろう。
血が出るほど拳をぎゅっと握りしめて、唇をきつく噛みしめた。


ザー・・ザー・・ ・・・・ ・・・・。





彼女はいまも、泣いているのだろうか。









君 を 乗 せ た レ イ ン ト レ イ ン


(この手からすり抜けていくのは彼女と、愛?)





ずっと傷つけて、泣かせてしまったのに。
この手で彼女の涙を拭う資格を欲しがっていることに、気がついた。


* is,

09.1.4.aoi