朝はくる、どんなかなしいことがあったとしても。
母さんが死んだときもそうだった、と目を閉じて私は思い出す。 窓からそっとふりそそぐ陽の光のやわらかさを、濡れた瞳で見つめて知った。 涙で固まっていた心はほどけて、降り注ぐ光に最後の涙の一粒が零れ落ちた。
ああ、なにがあってもしあわせな朝は等しく清らかに訪れる。希望はきっと誰のうえにも平等だ。
なら、大丈夫だ。なにがあっても大丈夫。 この胸の痛みも、いくつかの朝を迎えたころにはなくなるだろう。






ガラガラ、と職員室のドアを開けて廊下に出る。
テスト週間に入り部活も閑散としている放課後、話があるからと呼び出され、行ってみれば案の定、進路相談であった。 優等生の特権からか私はコーヒーをもらい、窓際で担任としばし言葉を交わした。

『ああ椎葉さん、これ資料ね。お父様とじっくり話して決めていってね』
『はい、ありがとうございます』
『・・・あら、銀杏が鮮やかねえ。もう秋なんてビックリしちゃうわね』
『本当ですね・・・。秋なんですね』
『もう受験までまっしぐらね。まあ文化祭が残ってるけど』
『あはは』
『・・・椎葉さん、なにかあったの?最近元気ないわ』
『・・・・・』

そんな問いに、何でもないと適当に濁した。濁すしかなかった、本当の理由など言えるはずもない。椎葉杏子、十七の秋にて大失恋、なんて。
曇り空のせいかひどく暗い廊下だった。誰もいないこの静まり返った空間に、一人分の足音がやけに響いた。
私はふと、銀杏の色の鮮やかさを思い出す。まるで夢のような気がした。あの夏から何年も立っているように思えて、眩暈を覚える。 でも、たった二カ月前のことなのだ。


長かった雨がようやく止んだ頃、彼は来た。揺れる瞳を持って。


『イバちゃん』
『・・・なに?』
『・・・ごめん、俺・・まだわかんない。どうしたらいいか』
『うん・・・解ってる。こっちこそごめん。もう、気にしないで?・・・とにかく、私は受験に専念するから』
『・・・おう』


あの告白に彼を痛めつけたい気持ちがなかったかと聞かれれば嘘になる。 私はあの狡い男に解らせるため、一線を引くため、これ以上自分が傷つかないようにするために言ったのだから。
それでも、ごめんと呟く彼をもう見たくなくて、なんでもないように笑った。私はまた本音を隠したのだった。
窓から外をちろりと眺め、小さく息をつく。相変わらずタス、タス、と歩く音だけが聴こえる。
もう、こんな結末になることなどずっと前から解っていたはずなのに。
なぜあんなことを言ったのだろう。あの夏の日が、嵐が、私の心をかき乱した。魔が差したというのだろうか。
あの夜以来、もう揺らぐことはなかった。思い出して泣いてはいても、心は不思議なことに落ち着いていた。
諦めがついたということなのかもしれない。 きっと、もう忘れなければならないのだ。この長すぎた片思いなど。あの日のキューのひどく強ばり戸惑った顔を思い出せば、それしか答えはなかった。
静かに廊下を歩いていく。もう人気のない放課後の校内には、寒気を覚えるほど、しんとした寂しさが漂っている。


「椎葉さん」


背後から声をかけられて、ゆっくりと振り向いた。ズボンのポケットに手を突っ込んだクラスメイトが、少しだけ固い表情でそこにいた。
ああ、西原くん。どうしたの?
ちょっと笑って問いかければ、彼はなぜだかホッとしたような顔つきになった。

「ちょっと話があるんだけど――」







そのはにかむような顔、私も知ってる。キューがアス姉が絡むと決まってした表情だ。







『イバちゃんといると安心するな』
『イバちゃんが大丈夫って言ったら本当に大丈夫な気がする』
『やっぱイバちゃんにはかなわねーな』


――蘇るのは、何気なく交わされたキューの言葉。思い出す、サンキュー!と言って笑う彼の顔は、驚くほど鮮明にぴかぴかと光る。
それでも私は、いつだってキューの背中を押す立場だった。それ以上にも以下にもなれない、幼なじみという壁がいつも私を阻んでいた。
今だってふたりまっすぐ向き合えない。ただの幼なじみだったはずだと彼は動揺するだけで、私がそれ以外の感情をぶつけても。どうにもならない。 逃げるか諦めるしか選択肢が浮かばない。所詮、男女の垣根を越えた友情、それでしかないのだ。
でも、それでも良いような気がした。「幼なじみ」の上にも下にもならない、一生それでいい。それでやり通せる、そう思っていた。
―――彼と会うまでは。



「俺、椎葉さんのこと好きなんだ」



気づいてしまったのだ。自分の中に巣くう忌わしい感情に。
必死に押し込めていたものが溢れ出した後には、欲望しか残っていなかったことに。



好きと言って欲しい 『イバちゃん』 言わなくても受け入れて欲しい 『・・・なに?』 手を繋いでほしい 『・・・ごめん、俺・・まだわかんない。どうしたらいいか』 ずっと隣にいられたら――幼なじみとしてでも 『うん・・・解ってる』 どうして私を見てくれないの 『こっちこそごめん。もう、気にしないで?』 嘘、ほんとは気にしてほしい 『・・・とにかく、私は受験に専念するから』 キューの笑顔が見られたら私は何もいらない 『・・・おう』


そ ば に い て 。



―――戦慄した。突然の暗い闇に落とされたような気がした。心臓が嫌な音を立て、冷たい汗が流れ落ちる。 いつからそんなにも貪欲なものを抱えていたのだろうと愕然とした。 蓋をしたままの方がずっと楽だったなんて知らず、キューに数日ぶりに会って謝罪を交わした時、ようやく解ったのだ。

もう私はこれ以上彼には近づけない――何もなかったフリも、今まで通り幼なじみとして笑いあうことなんて出来ない。 私そんなに器用じゃない。
強すぎるその数々の願いは、いつまでも心に住まわせておけるほど善良なものではない。 いつか私は自分勝手に彼を傷つける日がくるだろう。我の想いの強さ故に彼を本当に困らせる日が来てしまう。 疎ましく思われ、今まで築いた友情すらすべて無くなってしまうだろう。 そして果てには何もかも壊したくなるほど、清く澄んだ美しさで彼を愛することが出来なくなる日がくるだろう。
打ち明けてしまったからこそ暴走しそうなこの想いに私は畏怖していたのだった。



「椎葉さんと付き合いたいんだけど」



・・・ずっと笑ってキューの後押しをして、でも後悔する夜もあった。素直に気持ちを伝えられたらどんなに良いだろうと泣く日もあった。
けれど、あの屈託のない笑顔が自分に紡ぐものの裏には何しかないか、なんてこともとうに解っていながら、本当は、ずっとずっと ――たった二文字の言葉がいつか自分に向くのを待ち望んでいた。期待するのは愚かだと自分を戒めながら。
でも、寂しくてもう駄目だった。



「俺じゃ、ダメ、かな」



きっともう限界。時は来たのだ。私はあなたから旅立つ。


大学の資料を両手でギュッと抱きしめて、まっすぐ目の前の男に向き直った。
強く握りしめたその表紙には、六人でいつか遠い昔に見たような、懐かしさを覚える桜が写っている。







大丈夫――なにがあっても大丈夫。キューから離れることだって平気だ。
この胸の痛みも、いくつかの朝を迎えたころにはなくなるだろう。

大丈夫、どんな時も朝はくるって知っているから。












さ よ な ら の う た


(そっとささやく別離)






t.影

09.7.5.aoi