長い長い、片想いをしている。
いつから恋に落ちていたのかなんてもうわからない。
あのひとに自分を見てもらいたくて、あのひとの一番になりたくて、あのひとが俺の世界のすべてだと思うくらいに。
でも、もちろん俺の世界はそれだけじゃなかった。
どれだけ振られたってすぐに立ち直るのは俺の強さでもポジティブさでもなんでもなく、みんながいたからだ。 慰めてくれたり時には笑いに変えてくれるとか、そんなの稀だったけれど、傍にいてくれる、それで十分だった。 ただそれだけで救われていた。言葉にも態度にも表したことは一度もなかったけれど。
その内のひとりがイバちゃんで、特に彼女は海のように深く、優しく包みこむ。すべて受け止めてくれる、だから安心した。
俺は馬鹿だから調子に乗ってついつい甘えてしまう。 それに彼女が呆れることなど珍しいことでもなく、当たり前のように日常に溶け込むひとつの情景だった。
…どちらも大切だ。失いたくない。怖かった。何かが崩れ落ちそうだと動揺した。
彼女の心の奥底にしまいこんだ本音と『女』に。
告げられた瞬間、もう戻れないと直感した。 一瞬前までの俺の世界には小さな穴が空いて、イバちゃんはその向こうからじっと俺を見つめている。
驚き以外の何物でもなかった。気づかなかった、そんな、俺のことを思ってただなんて。
だけど一番俺の心にパンチを喰らわせたのは、彼女に秘められた『女』の顔だった。
激しく動揺した。見たことのない顔を、俺を思うからこそしていたのだから。 綺麗だと思う涙さえ、俺への気持ちがあるから。
気づいてしまえば今までのイバちゃんは幻のようで、眩暈を覚えた。
言えば良かったのだと思う。本当はちゃんと。ごめんって、きっぱりと。 だけど、今まで見ていたイバちゃんがそこにいなかったから。
「もう自分の気持ちなんてわからない。友達だ、なんてはっきり言えなかった」
まっすぐ俺を見つめるイバちゃんに『女』を感じたから。
「今まで信じてたものすべてがひっくり返っちゃった気分でさ」
「………」
だから何も言えなかった。ただただ呆然とするばかりだった。なんで俺なんだと一瞬でも疑った。
きっと敏い彼女は俺の態度から察しただろう。だからあんなにも哀しそうな寂しい笑顔を俺に向けるようになったのだ。
はらり、はらりと残酷なまでに優しく雪は舞う。時折頬に触れる小さな冷たさが、泣きそうな心に拍車をかける。
クロは静かに俺の続く言葉を待っていた。
心を落ち着けるように数回深く息を吐き、ぎゅっと拳を握りしめる。
なあ俺はさ、
「…どうしても優しくしたかったんだ…」
『好き』でないなら優しくするなと彼女は言った。けれど、俺には無理な話で到底理解できない。
するしないの問題なんかじゃない、優しくするのは当たり前で、 たとえば彼女が泣いていたら手を差し伸べるし、彼女のことを悪く言ったやつにはすかさず制裁を加えに行く。
そうやって、ずっとずっと恋とか愛とかそんなものでくくらずとも大事に大事に思ってきた女の子なのだ、イバちゃんは。 ミケにだってサトにだって絶対に同じことをする。 優しくしないなど、いまさらそんなのできるわけがなかった。 いつでも笑顔でいてほしかった。
でも、イバちゃんは解ってはくれない。 あの夏の出来事に同情するからこんなに傍にいてくれるようになったんだろう、とも言う。
「同情なんかじゃなかった。ただ」
”怖かった…”
嬉しかった。
頼ることも甘えることもしない彼女のすることは、俺たちの歳で言えば珍しいほど正しい。なにひとつ間違ったことはしなかった。
だけど、俺はいつだって言ってほしかった。大人のようにそこにいるんじゃなくて、もっと。 もっと、気持ちを吐露したっていいんじゃないかって。
だからあの夏の日、素直に怖かったと泣いてくれたことが嬉しかったのだ。
そしてそんな彼女が泣いたあの時、ふと思い出した。 そういえばずっとずっと昔、彼女は同じように俺たちが知らない怖さを知って、そして同じように涙を見せたことがあったと。
目の前でぼろぼろと水になって零れ出してゆくイバちゃんの弱さに、忘れかけていたものを急速に取り戻した気分だった。
(…そうだ。「強い」女の子じゃない)
強くなんかない、ただの家族思いの優しい女の子だ。
母親が死んだ時、どれだけ彼女の心は悲しみに引き裂かれただろう。 それでもすぐに大丈夫だとなんでもないように笑って、明るく振舞って家族を支えて、 いつしか普通に笑って生活できるようになった。
それがどんなにすごいことか解っているつもりだった。だけど。
ようやく気がついた。
あれから一度も泣いたのを見たことがない、と。
キュー、と恐怖に震えながらすがりつく身体を抱きしめつつ、心のどこかで呆然としていた。
これが二回目?たったの二回目なのか。
ガツンと頭を殴られたような衝撃に心は震えて、彼女の凄さを改めて思い知る。
そう思えば尚更弱さを見せてくれたことが途方もなく嬉しくていとしくて、 ありのままの涙をさらけ出して自分にすがる彼女を一生甘やかしたい気持ちで 胸がいっぱいになって、…。
母を亡くした時のようにもう決して無理して笑うことのないようにしよう、 もう二度と怖い目に遭うことのないようにずっと傍にいてあげよう。
向日葵のようにずっと太陽のひかりだけ信じて笑っていたらいい。
何度も思い返しても結論は同じで、百遍時を遡っても、俺はきっと同じことをするだろう。
そのくらい俺にとっては自然な流れで、その決意に『同情』のかけらもなかった。そう思うけれど。
「やっぱそれって同情だったのかな…」
「…………」
クロはずっと黙っている。ただ俺をじっと見ている。
俺もただうっすらと小さく笑いながらクロの瞳に問いかけていた。
なあ、恋情でもないならこんな気持ちは抱いちゃだめなのか。
イバちゃんは、ずっと一緒に過ごしてきて、楽しいことも辛いことも悲しいことも全部共有してきた、大切な大切な。 彼女の存在なんて、彼女への気持ちなんて言葉では到底言い表せない。
もう無理なんだ、そんなの。
家への帰り際、雪はまだ降り続けている。ここ最近どうも良い天気に恵まれた試しがないとため息をついた。 寒さで凍えてしまう前にと足を少し速める。
そしてクロに言われた言葉を心の中に並べた。
――ややこしいよ、おまえらは。 なんも関係ねえよ、抱きしめたけりゃ抱きしめればいいし、優しくしたけりゃ優しくすりゃいい――それだけだろ。
なんとも感情直結型の彼らしいとクロにも返した苦笑を再度顔に浮かべる。
それには大いに同感で、自分も現在進行形で実践している理論ではあったけども。
『自分の気持ちがなんなのかなんて一生考えてもわかんねえよ。突然告白されて動揺するのもわかる』
――だってそんな対象として見てなかったから。だから見られてたことにも驚いたんだろ?
頷けばクロはそうだよな、と言って苦笑いをした。彼もまた同じ経験をしたから、よく解るのだろう。
でも、と続くクロの答え。それは少しだけ読める気がした。きっと彼はこう言う、
『おまえはずるいよ』
はあ、と白い息を吐く。
俺はどちらも手に入れようとしている、愛も友情も。そのくせして逃げている。
『ちゃんと向き合えよ。おまえがそんなだからイバちゃんも苦しくて離れるんだろ』
ふと前を見ると、騒がしい喧騒の中でふんわりと揺れる長い髪を見つけた。かすかな後ろ姿でもわかる、あのひとだと。 どれだけ欲しいと思い焦がれたかしれない女性、決して見間違えるはずはない。
地面を蹴るようにして飛び出した。
「飛鳥さん!」
「キュー?久しぶり。聞いたよ、春から修行だって?」
「うん。お店を継ぐって決めたから」
「そっか。………なんか珍しいね、あんたが抱きついたりしてこないなんて」
「あ、お望みなら喜んでやりますけど」
「馬鹿。――で?なんか決意した顔ね」
「ははっ、わかる?…うん、そうなんだ」
どうにもこうにもいかないと、俺の心はいつまでも迷子のようにぐるぐる回り続けている。
そんな風に中途半端で前に進めやしないのは、はっきりと決着をつけていないからだと分かった。
イバちゃんのように俺はまだ一歩も踏み出していない。
「飛鳥さん、」
"俺の知らない女の子になっていかないで"
その思いはいまも変わらない。
だけど俺は飛鳥さんが好きで好きで恋しくて、愛してるなんて何回叫んでも足りない。 飛鳥さんの涙も笑顔もすべて自分のものにしたい。
それだけが答えで、イバちゃんをいつまでも悲しませるすべてで。
だから確かめようと思った。そうしたあとで心に何が残るのか。 俺はいったいどうすればいいのか。
戸惑いはまだ消えない。イバちゃんの『好き』に何も返せない。
だけどもう何もかも、とことん向き合って確かめようと決めた。 逃げるのも立ち止まるのも終わりにしよう、こうしている間にも季節はどんどん大切なものを奪っていくのだから。
「おれ、飛鳥さんが好きです」
いつしか自分より小さくなった彼女、このひとを抱きしめたくて心ごとすべて奪いたくて。
けれど、そのそばで小さな花がゆらゆらと揺れ動いている。
『私は千葉に行くよ』
春を口ずさんで君は街を出てゆく
(ゆれる面影だけ残して)
2010.3.9.aoi