なんてことはない、最初はいつもと同じく平和に流れる日常のひとつだった。
私たちがいつもいるのは、良くも悪くも古さと人情味が染み込んだ下町の商店街で、それ以上も以下もない。 それが一転して、なぜ都会の、安い割にはお洒落なホテルなんかにいるのか、それはどう考えても悪天候のせいでそれともうひとつ。 よりによってそんな天気にあたるという、今日を選んだ私たちの不運のせいでもある。
今、私は所在なくベッドのそばに立っている。どうしていいかまったくわからない。 同じ気持ちでいるだろうキューも少し離れた横に立っていて、見事に沈黙しか流れない。 この気まずい感じ、運が悪いとしか言いようがなかった。


遊びにきただけなのに、なんでこうなるんだろう。
風と雨がありえない強さで窓を叩きつける、その悪天候ぶりを、私は恨めしく睨み付けた。
ほんとに最悪だ。いつぞやのリベンジとキューが遊園地に誘ってくれたから来ただけなのに。 天気予報だって、こんな風になるなんて一言も言ってなかった。
なのにそいつは突然現れ、瞬く間に遊園地も電車もストップさせた。帰れなくなってしまったのだ。 当然一泊せざるをえなくなり、電話の向こうの、いつものんびりしている父もさすがに絶句していた。 そして最後にようやく吐き出したのは「気をつけて帰ってくるんだよ」という言葉――その声のあまりの低さに私が身震いしたことは言うまでもない。 キューの方も、おじさんの地の底を這うような声が電話に出たらしく、心なしか青ざめていた。
でも、それだけなら良かったのだ。ついでに「恋人」と言える関係じゃなかったら割りきることもできた。
けれど不運はホテルにまで及び、ふたりは部屋に入って絶句するはめになった。
――待て。なぜ、ダブルベッド。
ツインって言いましたよね!?という私たちの正当かつ悲壮な訴えは、結局、ホテルは満員という事実に折れた。


「あー…イバちゃん」
「っ、……な、に?」
「風呂、入ってきたら?雨に濡れて冷えてるだろ」
「へ?…あ、うん…そう、だよね。じゃあ先にもらうね?」
「おう」

ついにこっちを見ないまま提案するキューに、私は少し黙ったあと、そそくさとバスルームに入った。
早く気持ち良くお湯を浴びようと蛇口に手を伸ばす。 お湯をためる間、冷たい服を脱いでタオルにくるまる。そして思わず考え込んでしまった。

さっきのはなかなかスマートな提案だけれど、キューらしくないと思ったのだ。 もう少し慌ててもいいと思う…、まさかあいつはこういうのに慣れてたりするんだろうか。
そういえばキューが大失恋してから自分と付き合うまで間が空いている。女遊びもできるっちゃあできる、が。 まあ、でもそういう切り替えは下手な奴なのは知っているので、まさかなあ、と思うだけである。

(…付き合い始めて…何ヶ月だっけ)

指折り数えてみた。えーと…五ヶ月ぐらい、か。まあ、半年といっていいくらいだった。
といっても全然進展はない。友達の期間があまりにも長すぎて、なかなかそういう雰囲気にはならないのだ。 なんだか照れあってしまい、おまえらは中学生かとつっこまれたことは数えきれない。 お互い忙しすぎてあまりふたりの時間はなく、デートらしいこともしない。たまにお互いの家に行ったり、 夜の公園で会うぐらいだ。 要するに今までと同じ、家族ぐるみならぬ商店街ぐるみのお付き合いの方が濃い。 鉄壁の双子がことごとく間に入ってくるのも、大きな原因のような気がする。 姉の威厳を持って、一度がつんと言ってやろうかとは思うのだが、なかなかタイミングはつかめない。
それでも、キューは今まで通り接してくれるし、優しい。大した喧嘩もなく、仲良くやってる。 会えない代わりに、メールや電話が増えた。すぐそばにいて、すぐ一番星で会っていた日々とはすこし違う新しい付き合い方で、 それもまたいとしいと思う。

(ただ、なあ…壁があるように思えるんだよね…)

あまり触れてこないのだ、キューは。 たまにキスしてきたと思ったら、どこかぎこちないし、すこし苦しそうな顔をすることがよくある。 かといって私からいくのもなんだかはしたないように思えるから、なす術もなくて、聞く勇気もない。
あんまり、そういうこと好きじゃない、とか? でもアス姉にはよく抱きついてたし、熱がこもった愛の告白を何百回もしていたのを見ている。
――どくん、と心臓が鳴る。それは嫌な響きで、身体中が気持ち悪い。ごくり、と唾を呑んだ。
最後にキスをしたのは…いつだっけ。手を繋いだのは…さっき。でもはぐれそうになるといけないっていう、そんな理由だ。 抱きしめてくれたのは?ふ、ゆ?だっけ?いや、秋か。…って、あれからどれだけ経ったと思ってるんだ。 もう季節は春で、桜も咲くか咲かないかの頃なんだから。

「…………」

あ、れ?
私は、しばし茫然自失としていた。
なんてこった。忙しい日々の中で恋愛要素は、ほぼ皆無であることに今更ながら気づいてしまった。
それでもふたりが一緒にいるのは、たぶんこの状態から言うと、 恋人だからとかではなく小さな商店街の中で気づけば顔を合わせる幼なじみだからなのだ。 昔から培ってきた関係だから今もこうしてここにいて、 今やっと恋人らしいことをしていないことに思い当たっている、ということ、で。そういうのが正しい気がする。
それってどうなんだろう、恋人同士っていえるんだろうか。 たぶん、言わないなあと頭の片隅の冷静な部分は、結論をいとも簡単に弾き出す。なんだか悲しい。
…キューは、知らないだろう。求めるのは男だけじゃない。女の私だって、そうなんだってこと。 私だってキューにもっともっと触ってほしくて、手を繋いだりキスを当たり前のようにしたかったり。 それ以上のこと、考えてドキドキして眠れなくなって、でもそのいつかを待ちわびているってこと。
まだまだ照れ臭くてつい殴ったりとかしちゃう時もあるけど、 そんな時も抗議しつつ、結局笑って懲りずに愛を囁いてくれるキューが好きなのだ。 そんなことも恥ずかしくて言えないから、キューは私に飽きてきているのかもしれない。
どうしよう――怖い。キューは、なぜ私に触れないんだろう。
小さいようで大きな疑問は、ちくりと胸を刺して、いつまでもじくじくと痛ませた。
いつのまにかバスルームに充満していた熱気は、私を包んで、泣かせる。









…なんで、こんなことになってんだろ。
残された俺はずっとその疑問を繰り返し続ける。それから数分経って、いや暴風雨のせいなのだと完全に諦めがつき、ようやく堂々巡りの思考を終えた。 ベッドの端に腰かけて、もうため息しかでない。
一枚のうっすいドアの向こうにはイバちゃんの、はだ…ああいやいやいやうん、なんでもない、うん気のせい気のせい気のせい。 それ以上考えたら負けだ。負けたら父親の氷点下の眼差しと辛い日々が待っている。バレれば、の話だけど。
ぶんぶんと頭を振り、息を整える俺は、もう変態としか言いようがない。
――手を出さずにいられるか。それが目下の重要な課題、なわけで。

(ていうか、据え膳食わぬはなんたらっていうし我慢する理由ないっていうか、つーかこれを逃したら一生イバちゃんに触れない気がしてしょうがないし)

心の中で年頃の男としての意見をずらずら並べてみる。悪あがきってやつだ。これは、男としては願ってもないチャンスなんだから。
もう十九とはいっても下町育ちの幼なじみふたりには、好奇心と監視が織り混ぜられた厳しい周りの目がある。 イバちゃんは女の子だから行動は制限されるし、イバちゃんは家政系だからそれなりに忙しいし、家事もある。 大方、桃子が引き継いでくれているらしいが。 その上すさまじいシスコン双子の目も気にしなきゃいけなく、家業修行中の身とでは夜にこっそり会うくらいしかできないのだ。 …今、自分たちの状況を思い返してみて、涙が出そうである。
今夜を逃したら次なんてそうそうないだろう。おまけに聡い彼女は今日すでに警戒している。 賢いところが彼女の美点であり、時には欠点にもなりうるのだと、俺はちょっと思った。

(……だけど)

だけど、やっぱり、大事にしたいのも本当だった。
いままでずっと大切な友達で、恋人になってからは更に慈しむようなその感情の度合いは大きくなって。 いままで築き上げてきた関係がもたらす幸せは計り知れず、容易く壊したくなんかない。 彼女の笑顔を奪いたくない、泣かせたくない…思えば思うほど躊躇いは強くなるばかりだ。 踏み込んだ先に彼女がまだ笑ってそばにいてくれるのか想像もつかない。
「好き」、ただそれだけで男のエゴを押しつけて、安易に踏み込んでいいんだろうか。ここから先、なにかがあって別れたとして、そしたらもう戻れない。 今なら引き返せるんじゃないかなんて思ってしまう。椎葉杏子という存在が大事で大事で何にも変えられないと知ってしまったから。
未知の世界に飛び込む勇気がないなんて、彼女にしてみれば臆病だと笑うだろうか。




ふいに、キィ、とドアの開く音が聞こえた。 それは恐る恐るといったものだったから不思議に思って振り返る。 そして目を見開いて唖然とした。

「イバちゃん…それ…」
「や、あの…その、服濡れてるからホテルの浴衣しかなくて…!」

目眩がした。なんだ、これ。一種の修行か。ああそうだろうとも、そんなの修行と言わずしてなんと言う!
常識ではあるが、旅行など縁のない俺たちには、ホテルのパジャマ=浴衣かバスローブという方式は定着していなかった。
そんなこともうっかり忘れていて突然目の前に突きつけられたその淫靡なアイテムに、俺は天を仰いだ。 そんな薄い肌着なんて一瞬で剥がせる上に、乱れさせたら天下一品だ。 以前目にしたことのある湯けむりなんたらとかいうAVを一瞬思い出す。 いやまあセーラー服とかも同等だったけど――って違う違うだからそんなこと考えてる場合じゃないっつーの!
叫びたい衝動を必死に抑え、ちらりと盗み見た。イバちゃんはベッドから少し離れたところで、所在なさげに立ち尽くしている。 イバちゃんの、しっとりとしていて艶めく黒髪と浴衣姿は、なんだかおしとやかで色っぽいように思えた。 彼女の気恥ずかしげにそっぽを向いている様に、

(―――)

考えるより先に、身体は動いていた。一瞬で彼女の目の前に立ち、引き寄せて強くかき抱く。 くしゃりと髪をやわらかく掴めばいい匂いがして、頭にカッと血が上って髪からこめかみへとまさぐるようにくちづける。 抑えられる、はずもなかった。翻弄されている彼女の身体が揺れる、揺れる。

「キ、キュー、いきなりなに…っ」
「ごめんイバちゃんもう限界、開き直らせて」
「え!?」

はっきり言おう――俺は、イバちゃんに欲情している。



「もっと深く」


「…触れてもいい?」






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