思いは揺れる、いつまでも。
けれど、彼女は。












「…………千葉?」

愕然とした声が幾重にもかさなる。
それはあまりにも突然の告白で、イバちゃんをのぞく俺たち五人はそれきり声を失った。
無理もなかった。つい先日、マモルが北海道の大学へ行くと言いだし、それに続いて思いもよらない人物もまた銀河町を 離れるというのだから。
イバちゃんが千葉の大学へ。寮に入って家には戻らない――。


気づけばこの街は冬を迎えようとしていて、皆それぞれが進路で慌ただしく過ごし、毎日のようにつるむことはなくなった。 そんな日々の中で一番星に集まり、お互いの顔を見るのは久しぶり。
いつものようにわいわいとポテトやジュースやらをつまんで、たわいもない話をしていたはずだった。 クロにちょっかいを出してイバちゃんに怒られるのも通常通り、ただ笑うイバちゃんがどこか寂しそうに見えた、それだけ。 俺は「ん?」なんて思ったのだけれど。
…なんて残酷な季節なのだろう。凍てつくような寒さばかりか、こんなにも心を冷たくさせる出来事さえ連れてくるのだから。
なぜ、彼女はそんなにも遠くに行こうとしているんだろう。
だけど、何故と考えたって思い当たる節のありすぎる俺の身体は、かすかに震えだす。

「もう推薦で決まったんだ。受験するって決めるの遅かったからギリギリだったけどね」
「み…店は?大丈夫なの?」
「大丈夫。桃子もしっかりしてるし…皆行って来いって言ってくれた」

微笑むイバちゃんは、かつてないほど毅然とした眼差しを持っていた。 その視線の先は、彼女が描きつつある遥か遠い、けれど確実に訪れる未来なのだろう。
ゆるぎない、決意の目だった。もう、誰にも覆せない。 きっと誰が泣いて喚いて「行くな」と止めても、彼女はごめんねと柔らかく笑って、それでも背中を向けるに違いなかった。
それがみんな解って、ただ沈黙しか返せず、イバちゃんを見つめ続ける。

「…なんで?」

ようやく出した声は小さくかすれていて、イバちゃんがハッとしたように俺を見る。俺を見る瞳が少しだけ潤んで揺れた。
まっすぐに目を合わせるのは随分久しぶりだと思った瞬間、なにかこらえきれないものがあふれだす。

「なんでだよイバちゃん――俺とのことがあったからか?だから、だから行こうとしてんのか!?」
「おい、キュー!」
「チビ達を置いてくなんてイバちゃんらしくねえよ、」
「キュー!?やめてよどうしたの、」
「なあ!なんで急にそんなこと決めんだよ!俺が、俺がッ」
「―――キュー」

風が吹いて、バチン、と乾いた音がした。
鋭い痛みが頬に走って、辺りは一気に静まり返る。
俺は呆然として頬に手をやり、目の前の顔に向きあった。ゆっくりと。

「……そんな泣きそうな顔しないでよ、キュー」
「…イバ、ちゃん…」

――泣きそう?誰が?………俺、が?
そこまで考えて、急に視界がぼやけだす。慌ててそれがあふれでてしまう前にと、必死に歯を食いしばるも間に合わなかった。 ぽとん、と小さくそれは落ちて、皆が息を呑むのがわかった。
ちげえよ、これはひっぱたかれた痛みからだよ。だってイバちゃん怪力なんだぜ、めちゃくちゃいてえよ。 だから違う、別にイバちゃんがいなくなるから出る涙なんかじゃない。そんなんじゃない――
そう茶化すつもりだったのに、声が出ない。苦いものが喉までせりあがってきて、くるしい。
彼女は黙って俺の頬を少しだけ撫でた。優しい指と笑顔で。その笑みの儚さになぜだか胸が締めつけられる。

「ごめんね。……ありがとう」

キューのせいなんかじゃないよ。
そう言って笑って、カランコロンと一番星のベルを鳴らして出て行った。
クロやミケが一気に気が抜けたように、ぽすんと力なくソファに腰を下ろす。
俺は彼女が消えた方向に身体を向けたまま、絶対に原因は自分でしかないと確信していた。
心に、張り付いている。彼女のなにかを諦めるような笑顔が忘れられない。 笑っているようでいて泣いてる気がした――あの日からそうだ。イバちゃんに想いを告げられたあの日から。 再び彼女に会いに行き「保留」を言い渡した時も、彼女は同じ顔をして承諾したのだ。 その笑顔に胸が詰まっても、それでも何も言えなかった。ただ、「ごめん」としか。
俺はなにを間違えたんだろうか。答えはどこを探せば見つかるんだろう。そんな後ろめたさが身体中につきまとう。

「………っ」

彼女は「冗談だよ」なんて言ってもう一回ドアのベルを鳴らしてはくれない。
待っても待っても開くことのないドアを見つめたまま、立ち尽くしていた。
ひたすら流れる無言の空間の中、キュ、キュ、とコップを拭く音だけが店内に響いて、マスターがぽつりと静かに言葉を落とした。

「旅立ちの時、だな」














酷ではあるが、とマスターに店を追い出され、行き着く先は幼い頃から親しんだ公園だった。 ここで昔、六人でよく遊んでいた。 春も夏も秋も、凍えそうに寒い雪が降った冬でも、いつでもここに来ていた。
懐かしい思い出とともに先ほどの彼女の姿が蘇りそうで、慌てて頭を小さく振る。
キィ、とブランコを軋ませて座った。その遊具のあまりの小ささに思わず笑ってしまう。

「ちっちぇなー、これ」
「当たり前だろ。俺らもう十八になるんだぞ」

ひとりだけ俺についてきたクロが、隣に腰掛けて苦笑する。
二人をそれぞれ乗せて、ブランコは揺れはじめた。
キィ、キィ。

「シーソーゲームみてーだな」
「あ?…あー見事に揺れる方向が逆だな」
「合わせろよ」
「やだよ。なんでキューに合わせなきゃいけねんだよ」

だってずっとそうやってすれ違うのはなんとなく寂しいじゃん。
そう言いかけて、やめた。
クロはそんな俺に目を止め、ザザザザと足で地面を擦り、ブランコの動きを止めた。

「おい。おまえ、イバちゃんと何があったんだよ」
「…直球だな、おまえ…」

あまりにもまっすぐに問いかける幼なじみに、少々呆れる。 ここまで、どストライクのボールを投げてくれると逆に清々しい。
そう思って微かに笑っていると、クロの剣を帯びた表情が俺に突き刺さった。 そんな風に笑っていられるほど軽い事態じゃないのだと自分を睨んでいるのだ。
それでも、すこしだけ口端を上げたまま、クロを見つめる。

「なあ、何があったんだよ」
「――――」
「何にもないなんて言うなよ」

おまえら隠すのが下手すぎるんだよ。
苦々しげに眉をしかめるクロに、おまえに言われたくねえよ、と冗談混じりで軽く笑おうとして失敗に終わった。 唇がうまく動かず、ただ通り抜ける冬風の寒さに身体を縮こまらせて終わる。
さりげなくクロから目を逸らせば、いつのまにか小さな小さな雪が降り始めていた。 あまりにも早すぎる光景に一瞬目を丸くし、やがて、ああだからこんなに寒かったのかと納得する。 そういえばもうすぐクリスマスなのだ。
はらはら優しく舞い降りるそれを眺めて吐く息はもう白い。
――早い。心は今でもあの暑い日差しと秋の嵐の日を覚えているままなのに、現実はこんなにも早く時が過ぎる。
それは、俺が立ち止まっている間にも、彼女はしっかりとした足取りで前に進んでいた証だった。 一人で決めて、そうして彼女は俺の知らないところで大人になっていく。大事なことを決めていってしまう。

(もう遠い)

俺の手から彼女はすり抜けていく。このことが胸を突き破りそうなほど寂しい。 だってずっと一緒に過ごしてきて、楽しいことも辛いことも悲しいことも全部共有してきた、大切な大切な。 彼女の存在なんて言葉では到底言い表せない。もう無理だそんなの。
頭の中はぐちゃぐちゃで、ここで今すぐ心の底から泣いてしまいたかった。
唇を噛み締めて、無言でしばらく雪が降り積もる様を見つめる。
そうだ。ふと立ち止まれば、いつだって思い返す。
あの夏に生まれた氷のような悲劇も、それが見せた彼女の弱さも、激しく吹き荒ぶ嵐が呼んだ思いがけない激情も。





ミーンミーンミーン…

"キュー!!!"

"怖かった…"




"――ふざけないでよ!"

ゴオッ、ガタガタガタ…ザーー…






"…キュー、私があんたを好きだって言ったらどうする?…"






「――――……」

夏の日の涙も秋の日の涙も、残らず全部全部覚えている。
だけど俺は、あのひとが流す涙が一番いとしいのだと。
言えなかった。



「…俺を好きだなんて言うと思わなかったんだ…」











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